打ってよし走ってよし、日本一の「安打製造機」
「日曜朝の顔」の一人と言ってもよかった張本勲が昨年末で番組を降板した。スポーツ界の「御意見番」として容赦ない「喝!」をつけることで知られたが、御年81歳、引退から41年。大選手であることは知っていても、どんな選手なのか知らない人も多くなっている。
張本は1940年広島生まれ。王貞治、板東英二などが同世代。大阪の浪華商業を経て1959年、東映フライヤーズでプロ野球デビュー、以後巨人、ロッテで23シーズンプレー、NPB最多の3085安打を打った。
日本一の「安打製造機」と言ってもよいが、単に安打を打っただけの打者ではない。実は長打も多く、足も速いまれに見る大選手だった。張本の通算成績の中でNPB歴代10位以内に入っている主要記録を見ていこう。
張本は試合数で4位、打席数で3位、打数で2位、実働23年のうち新人から20年連続で規定打席に到達。故障が少なく、非常にタフな選手だった。安打数はNPB史上で唯一3000本を超えたが、二塁打7位、本塁打も7位タイ。そして打点も4位、安打を打っただけでなく、長打も多く中軸を長く打った勝負強い打者だ。
この点、張本と並び称される「安打製造機」のイチローとは大きく異なるところだ。そして単に安打を量産しただけでなく、打率も1位のリーに1厘差に迫る4位の.319。3割をNPB史上最多の16回も記録している。
また三塁打も9位の72本。盗塁はこの表にはないが史上26位の319盗塁。足も非常に速かった。30盗塁以上は2回記録しているが、1963年は33本塁打41盗塁、打率.280。1964年は21本塁打31盗塁、打率.328と惜しくもトリプルスリーは記録できなかった。
首位打者7回、打撃3部門で優秀な成績
張本の主要タイトルは首位打者7回だけ。これはイチローと並ぶNPB最多タイ、ほかに最高出塁率を9回獲得しているが、本塁打、打点のタイトルはなし。これは同時代のパ・リーグに手ごわいライバルがたくさんいたからだ。
1961年から1972年までの、パ・リーグ打撃3部門の1位、2位の打者を並べると以下のようになる。
同時期のセ・リーグは王貞治、長嶋茂雄が圧倒的な強さを見せてタイトルを寡占していたが、パ・リーグは野村克也を筆頭に、山内和弘、土井正博、大杉勝男、スペンサー、アルトマンなどの強打者がひしめいてタイトル争いをしていた。
張本はこの期間に首位打者6回のほか、打率2位が2回、本塁打2位が3回、打点2位が5回、野村克也がいなければ本塁打王2回、打点王を4回獲得していたことになる。また、1966年は打撃3部門ですべて2位。三冠王ならぬ「三冠2位」を記録している。
1970年に当時のNPB記録となった打率.383をマーク、1972年にも打率.358で首位打者を獲得、巨人に移籍して1年目の1976年にも打率.355を記録。打率.350以上を3回記録した打者も張本勲だけだったが、のちにイチローが4回記録してこれを更新。
ただ、セ・パ両リーグで.350以上を記録したのは張本勲だけ。リーグが変わり、対戦する投手が変わってもコンスタントに安打を打ち続けたのだ。1976年は江藤慎一に続く「両リーグ首位打者」のチャンスだったが、中日の谷沢健一の猛チャージにあって史上最少の.00006(6糸)差でタイトルを逸している。
苦手だった守備、引退後はKBOの発展にも尽力
打ってよし、走ってよしの張本だったが、泣き所は守備だった。少年時代にやけどで指を負傷した上に肩を損傷したこともあり、投げるのが苦手。左翼守備では、フライを捕球すると他の外野手に送球を任せることもあった。
1975年からパ・リーグはDH制を導入。張本には有利な制度に思えたが、1976年に巨人に移籍したため、DHでの出場は1975年とロッテに移籍した1980、81年の2年だけだった。「守備でも安打製造機」というきついヤジも飛んでいた。
打席ではバットを体の正面に、やや斜めに傾けて構えると、バックスイングを一切せずにそのまま振りぬいた。広角打法と言われたが、引っ張る打球は飛距離があり豪快そのもの。投手との駆け引きもうまく、投手がストライクを投げてこないとみると、打席でバットを構えずにステッキのように地面に突いて見送ることもあった。
引退後は短期間打撃コーチをした以外は解説者として活躍。またKBO(韓国プロ野球)が誕生すると、在日選手をKBOに数多く紹介し、KBOの発展に尽力している。
同世代の王貞治ともども「野球界の元老」というべき野球人。その偉大な記録は色あせない。
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