日本ハムから電撃無償トレード
巨人に電撃トレードされた中田翔。暴力行為が発覚して出場停止処分を科された主砲がシーズン中に無償で放出された経緯から考えると、中田が将来的に日本ハムに戻る可能性は極めて低いだろう。一から出直しとなった中田は、前に進み、結果を出すしか道はない。
大阪桐蔭から2007年ドラフト1位でプロ入りし、通算261本塁打をマーク。2014年、2016年、2020年と3度の打点王を獲得し、日本代表としてもWBCやプレミア12に出場するなど輝かしい実績を誇る32歳だ。まだ老け込む年齢でもなく、広い札幌ドームのスタンドに放り込んできたパワーは、東京ドームならさらに期待できる。
暴力が許されるはずはないが、一人のスター選手が活躍の場を失わず、再び輝けるチャンスを与えられたことは喜ぶべきことだ。
ただ、巨人では日本ハム時代のように4番のイスを空けて待ってくれることはなく、打たなくても我慢して使ってくれることもない。結果を出さなければ代えられる。勝負に徹する原辰徳監督が、そこに感情を挟む余地はないだろう。
張本勲は3000安打目前で移籍、加藤英司は1年で自由契約
中田の背番号は日本ハム時代の6から、ジャスティン・スモークの退団で空き番になっていた10に変わった。現役時代に長らく背負っていた阿部慎之助二軍監督のイメージが強いが、決して出世番号という訳ではなく、苦汁を嘗めた先人も少なくない。
1976年から4年間背負ったのが張本勲。35歳で中田と同じ日本ハムから移籍し、1年目は打率.355、2年目も.348と好成績を残した。しかし、4年目の1979年は77試合出場で打率.263に終わり、あと39本に迫っていた通算3000安打を達成するために、出場機会を求めてロッテに移籍。巨人での大台到達は叶わなかった。
その後、ロイ・ホワイトらが背負い、1986年には近鉄からトレードで加入した加藤英司が継承。しかし、68試合出場で23安打しか打てず自由契約となり、あと13本に迫っていた通算2000安打は、南海に移籍した翌1987年に達成した。
駒田徳広はFA移籍、吉岡雄二はトレード、広澤克実は自由契約
駒田徳広は背番号50だった1983年に初打席満塁本塁打を放つ衝撃デビュー。1988年から背番号10に変更し、1993年まで6年間で796安打、97本塁打を放つ活躍を見せたが、FA宣言して横浜に移籍した。
吉岡雄二は帝京高の4番・エースとして夏の甲子園で優勝し、投手としてプロ入り。野手転向後の1994年から背番号10に変更し、二軍で本塁打と打点の二冠王に輝くと、1995年に30試合、翌年も29試合に出場したが、1997年に石井浩郎との交換トレードで石毛博史とともに近鉄へ移籍した。
ヤクルトから1994年オフにFA移籍した広澤克実は2年間、80を背負った。10に変更した1997年は22本塁打を放ったものの、徐々に成績は下降線を辿り、1999年はわずか16試合の出場で自由契約。ヤクルト時代の恩師・野村活躍監督率いる阪神に移籍した。
阿部慎之助は名球会入り、スモークは途中退団
歴代の背番号10の中では、阿部慎之助が最も実績を残した選手であることに異論はないだろう。プロ入りから現役引退まで19年間で通算2132安打、406本塁打をマークし、名球会入りを果たした。
メジャー通算196本塁打の実績を引っ提げて今季から加入したスモークは、34試合に出場しただけで、コロナ禍で家族が来日できないことを理由に6月で退団した。
不本意な形で移籍した中田は、心中ひそかに期するものがあるだろう。悔恨、反省、自らへの憤り、情けなさ…去来する様々な思いを胸に、今は野球に没頭するしかない。歴代の10番以上の活躍をし、拾ってくれた巨人を逆転優勝に導けば最高の恩返しになるが、果たして…。
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