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能見篤史のオリックス入り決定、最後の「三羽ガラス」がもうひと花

2020 12/8 15:41楊枝秀基
オリックス入りが決まった能見篤史ⒸSPAIA
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ⒸSPAIA

「高校生左腕三羽ガラス」川口知哉は短命

そんなのいつの話ですか?

数年前でも本人がそう言ったぐらいなので、読者の中でも記憶に残っている人はレアと言えるだろう。「高校生左腕三羽ガラス」。この3人のうちの一人はオリックス入りが決まった前阪神・能見篤史投手(41)だ。

その他の二人も素晴らしい投手だった。この中で最も早く注目を集めたのは平安高(現龍谷大平安高)で活躍し、オリックスに入団した川口知哉(41)だろう。現在は女子プロ野球、京都フローラの監督を務めている。

1997年、夏の甲子園では中谷仁(現智弁和歌山監督)を擁する智弁和歌山に敗れたものの準優勝投手。同年のドラフトでオリックス、近鉄、ヤクルト、横浜から4球団競合の1位指名で注目を集めた。

だが、プロ入り後は故障や制球難に苦しみ、2004年に戦力外通告。1軍での登板はわずか9試合、12イニング、14奪三振、10四死球という成績に終わった。その後は一般企業に勤務しながら、アマ野球を指導。2010年から女子プロ野球の指導者となり、現在に至っている。

全盛時には「ビッグマウス」が有名だったが、早熟でプロ野球選手としては最も短命に終わってしまった。

阪神優勝の原動力となった井川慶

さらにもう一人は虎党なら忘れられない存在、井川慶(41)だ。実は現在でも現役アスリート。「まだ、130キロ台後半出ますよ」とトレーニングを続けている。

井川は水戸商高から1997年ドラフト2位で阪神に入団。3年目の2001年からローテーションに入った。暗黒時代から脱却し、2003年星野阪神の18年ぶりリーグVの原動力となったことは周知の事実だ。

2007年からはポスティングシステムを利用して米大リーグ・ヤンキースへ移籍。入札金は当時のレートで30億円にも上った。5年2000万ドルの大型契約を結んで期待を集めたが、メジャーでは実働2シーズン、16試合の登板に止まり2012年にNPB復帰。オリックスから関西独立リーグを経て現在に至る。

井川にとっての全盛期は20勝を挙げた2003年からメジャー移籍前の2006年あたりといえる。「高校生左腕三羽ガラス」の中で最も輝いていたことは紛れもない事実だ。

最もプロ入りが遅かった能見篤史

その頃、冒頭で登場した能見はどうだったのか。能見は鳥取城北高で実力を認められながら、全国大会などの出場には縁がなかった。それでもプロ指名の可能性があったが、熱心なスカウトを受け社会人野球の名門、大阪ガスに入社。ただ、度重なる故障に悩まされ、対外試合での実績はほぼなく「幻の投手」と言われた時代もあった。

ようやく入社5年目の2003年から頭角を表し、2004年には日本代表に選出。同年ドラフト自由獲得枠で、同級生の井川がバリバリのエースだった阪神にようやく入団した。

早熟だった川口と入れ替わる形で能見がプロ入り。井川は全盛期を迎え「高校生左腕三羽ガラス」はそれぞれの成長曲線を描きながら微妙に交差した。能見はプロの土俵に立ったものの「あの頃の自分なんてまだまだ。チームメートですけど井川も遠い存在でした」と一気にブレークとはいかなかった。

入団1年目の2005年にチームはリーグ優勝を遂げ、ルーキーの能見も4勝を挙げた。それでも「チームは優勝したけど、その輪の中心に僕が入っていたかというとそうではないですよね」とまだまだ手応えを掴むには至っていなかった。

2008年は未勝利で崖っぷち

当時、能見が同級生の井川を見て感じたこととは。「先発ローテとして何年も続けて180イニング以上とか投げてくれる。監督からしてもすごく助かると思うし、周りの誰が見ても頼もしい。それがチームのエースとしての存在感だと思いましたね」。

確かに井川は3年目21歳の2001年には192イニング、2002年は自己最多の209.2回を投げた。そこから阪神を退団するまでの6年間で平均198回を投げる驚異的な数字を残した。そのうちの4シーズンは200回超えというのは超人的だ。

ただ、能見もそれを漫然と眺めていたわけではない。考えて、もがいて、必死で左腕を振っていた。それでも1軍での結果が伴わなかった。井川がチームを去って2シーズン目の2008年には、入団以来初めてシーズン未勝利に終わった。ウエスタン・リーグでは防御率0.83という圧倒的な成績を残しても…。翌2009年シーズンで能見は30歳を迎える。崖っぷちの状況だった。

当時の二軍投手コーチだった星野伸之氏は「能見は絶対に1軍で活躍できる。俺はそう言い続けているし、本当にそう思っている。ファームで投げているように、ゆったり打者を上から見下ろして自分のリズムで投げるだけでいい。一軍だからって普段よりいいところを見せようと思わなくていいんだよ」と話していた。

先輩のジェフ・ウイリアムスは「ノーミはすでに実力はある。とにかく自信を持て。必要なことは何でも聞いてくれ。全て教える」と完全サポートしてくれた。能見の取り組む姿勢、これまでの鍛錬、経験、周囲の応援する気持ちが重なった2009年に能見はブレークした。

井川を上回る通算104勝、来季は投手兼任コーチ

シーズン当初は開幕ローテに入るも、チャンスを生かせずリリーフ併用。だが、7月以降は11試合で全て先発して9勝2敗と結果を出し、最終的に13勝9敗、防御率2.62と好成績を残した。

能見は「これだ、こうすれば打者はタイミングを崩すというものを掴んだ」と、その後の地位を築く土台を作った。翌2010年は故障もありながら8勝無敗。11年は200.1回を投げて12勝と絶対的なエースに君臨した。

そこから3年連続で180イニング以上を投げ、首脳陣が計算できる頼もしい存在に成長していた。この頃の能見は井川の領域に追い付いていたと言ってもいいだろう。単純には比べられないが日米通算95勝の井川に対し、能見はNPB通算104勝。最も遅咲きの「高校生左腕三羽ガラス」は大器晩成だった。

阪神を退団した能見は、来季からオリックスで投手兼任コーチを務める。背番号は26に決まった。今季は34試合で1勝1セーブ、防御率4.74と不本意ではあったが、最終登板の11月11日のDeNA戦(甲子園)では149キロも記録。衰えなしをアピールしていた。

来季で42歳を迎える「不惑の左腕」。最も長持ちした最後の「三羽ガラス」に2021年も注目したい。

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