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慶応義塾高校野球部の甲子園成績、受け継がれる「陸の王者」の伝統

2023 8/24 06:30SPAIA編集部
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仙台育英を破って107年ぶりの全国制覇

第105回全国高校野球選手権記念大会は神奈川代表の慶応が優勝した。決勝は今春センバツで敗れた相手で、夏連覇を狙っていた仙台育英(宮城)に8-2で快勝。アルプスだけでなく内外野スタンドからも沸き起こる大声援も味方につけ、見事107年ぶりの全国制覇を果たした。

甲子園通算13本塁打の最多記録を持つ清原和博氏の次男・勝児がベンチ入りしていることもあって大会前から注目度は高かった今夏。初戦は北陸(福井)に9-4で快勝。清原は代打で登場してレフトフライに倒れたが、力強い打球にスタンドが沸いた。

3回戦の広陵戦はタイブレイクの延長10回表に3点を奪い、6-3で優勝候補を破って15年ぶりの8強入り。さらに15年前の準々決勝で敗れた浦添商と同じ沖縄代表の沖縄尚学も7ー2で下した。

103年ぶりの進出となった準決勝は土浦日大(茨城)に2-0で完封勝ち。そして、決勝でも昨夏王者相手に堂々の戦いぶりで慶応フィーバーを巻き起こした。改めて慶応のこれまでの甲子園成績を振り返ってみたい。

慶應義塾高の春夏甲子園成績

第2回大会で優勝、慶応商工、慶応二高としても出場

初出場は1916年の第2回全国中等学校優勝野球大会。まだ甲子園球場ができる前、大阪の豊中グラウンドで行われた大会で慶応普通部(東京)は愛知四中、香川商、和歌山中を破って決勝に進出した。頂上決戦では市岡中(大阪)を6-2で下して優勝。後に2008年の明治神宮大会も制しているが、今夏の甲子園を制するまで春夏の全国大会ではこれが慶応の野球部史上唯一の優勝だった。

その後も1921年まで6年連続出場。1918年は米騒動のため大会中止となったが、1917年と1919年は1勝してベスト8、1920年は長岡中(新潟)と松山商(愛媛)を破り、決勝で関西学院中(兵庫)に敗れたものの準優勝を果たした。

この頃、慶応普通部とは別に慶応商工(東京)があり、甲子園出場はトータルでカウントされている。慶応商工は1929年に春夏連続出場。その後も合計して春3回、夏4回甲子園に出場している。1947年は慶応普通部と同時出場したため、別々に数えるとセンバツ出場は11回だが、慶応としてのセンバツ出場回数は10回となっている。

さらに1948年に発足した慶応二高が1949年センバツに出場。慶応高公式ホームページの略史によると、慶応義塾第一高と慶応義塾第二高は1949年に慶応義塾高になったと記されており、慶応二高としての甲子園出場はこの年が最初で最後だった。

2005年センバツでは「古豪」扱い

慶応は1962年夏に出場したのを最後に甲子園から遠ざかっていたが、21世紀に入ると再び神奈川を代表する強豪の仲間入りを果たす。

2005年センバツに45年ぶり出場を決めると「古豪」と表現するメディアもあったが、甲子園では初戦で関西(岡山)、2回戦で福井商を破って8強入り。2008年夏には松商学園(長野)、高岡商(富山)、青森山田を下して準々決勝に進出した。

2005年以降では春夏合わせて甲子園に8回出場。もう「古豪」と呼ぶ人はいない。

アルプススタンドでは在校生だけでなくOBやファンまでもが肩を組み、得点が入るたびに「陸の王者、慶応」と応援歌「若き血」を声高らかに歌う。元々は東京六大学野球の応援歌として誕生したと言われる「陸の王者」の伝統は脈々と受け継がれている。

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