田中辰治新監督の休養で急遽就任
第104回全国高校野球選手権大会に3年ぶりに出場する星稜(石川)に異変が起きていた。夏の大会で指揮を執ったのは4月に就任した田中辰治監督(45)ではなく、山下智将部長(40)だった。
田中新監督は5月下旬に体調不良を訴え、休養に入っていた。代行に立ったのが高校球界の名将で知られる山下智茂元監督(77)の長男、智将氏。春の北信越を制した日本航空石川など混戦模様と言われていた石川大会。苦戦が予想される中、ハプニングも乗り越えて星稜は勝ちきった。
智将監督代行の経歴は以下の通りだ。星稜OBで、現役時代は内野手。2年時に甲子園出場した。卒業後は専大で準硬式野球部に所属した。専大卒業後、専大付(東京)でコーチを務め、2011年に星稜に教員として戻ってきた。そして13年から野球部部長を務め、前監督の林和成氏(今年3月退任)を支えて星稜の強化に尽力してきた。
あいこ5回まではパー、次はチョキ
2019年春にも監督代行を経験している。林監督の謹慎にともない春の県大会、北信越大会と急きょタクトを託され、全勝で代行期間を終えている。奥川恭伸(ヤクルト)らを擁した力のあるチームだったとはいえ、監督不在の緊急事態で選手をまとめるのは簡単ではない。長年、チームの中枢に携わってきた智将氏のチーム統率力に初めてスポットライトが当たった。
以前に経験があったとしても、3年生の引退がかかった夏の重圧は別ものだった。小松大谷との決勝戦はまさに激戦。終盤に互いにホーム憤死が相次ぐ、手に汗握る展開だった。最後は1点差の9回、2死二塁から左前打で突っ込んだ走者が本塁でアウト。喜びを爆発させる選手たちと対照的に、代行監督はベンチの奥でグラウンドを見つめたまま、静かに涙を流していた。
「うれしいのはもちろん、ほっとした気持ちもあります。私は林監督、田中監督と比べて経験がない。とにかく足を引っ張らないように、選手のいいところを伸ばそうと思っていました。選手たちはよく我慢してまとまってくれました」
星稜と小松大谷の因縁は深い。星稜は14年夏の決勝で9回に8点差を大逆転してサヨナラ勝ち。ところが翌15年夏の準々決勝では9回に3点差を逆転されて逆に劇的なサヨナラ負けを喫した。奥川がいた19年夏の決勝は、同点の9回表、満塁弾が飛び出して辛くも甲子園へ…。毎回のように何かが起こるマッチアップだ。
それでも代行監督の肝は据わっていた。9回表のピンチでも「まだウラの攻撃があるから。逆転されてもいいから1点を守り切ろうと思うな」と選手に伝えたという。そして報道陣に対して「佐々木(優太主将)がじゃんけんに勝って後攻をとってくれましたから」とニコリと笑った。
聞けば、じゃんけんの手順まで教え込んでいたという。最初はパー。あいこが5回続くまではパーを続け、次はチョキ…。詳細は聞けなかったが、最後はチョキで勝ったことを佐々木が報告してきたそうだ。選手の緊張をほぐす、人心掌握術でもあった。
父智茂氏も祝福
野球の面では「強気」を掲げた。トリッキーな采配は好まないが、唯一と言っていい「色」だった。決勝でも盗塁を再三仕掛けた。「選手が弱気にならないように」。緊張で硬くなる選手たちの背中を押し続けた。
優勝決定後、観戦に来ていた父智茂氏がベンチ裏まで祝福に来た。「よう我慢した。頑張ったな。ありがとう」。耐えて勝つ―。父智茂氏、林監督と引き継がれてきた星稜野球のモットー。大会中は、毎試合ごとに短いメールが届いた。その中には「我慢せえ」の言葉もあった。「ありがたかったですね」と父の存在は、心の支えになっていた。
少なくとも甲子園までは監督代行を務めることが決まっている。過去に何度もドラマティックな試合を見せてきた星稜。初戦は第2日第2試合で愛工大名電と対戦する。初めて「監督」としてベンチに立つ智将氏は、ひと味違う星稜野球を見せてくれるはずだ。
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