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シドニー五輪の野球は屈辱4位…足並み揃わなかったプロ選手の派遣

2021 7/29 06:00楊枝秀基
シドニー五輪の中村紀洋,Ⓒゲッティイメージズ
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Ⓒゲッティイメージズ

シーズン中でも協力的なパ・リーグと出し渋ったセ・リーグ

世間では大きな話題となり盛り上がった。これまでアマチュアの聖域だったオリンピックの舞台に、2000年シドニー大会からプロの参加が認められることになった。特に1999年からプロ入りした平成の怪物・松坂大輔がエースとして日本代表に加わるというのはホットなトピックとなった。

今となっては昔のことだが、当時の球界には楽天イーグルスは存在せず、日本ハムの本拠地は東京ドーム、ホークスはダイエーであった。パ・リーグは人気低迷に悩んでおり、注目度を集める意味でも五輪には協力的だった。その反面、セ・リーグは選手派遣に関して足並みが揃っていなかった。

プロアマ混成チーム。一口に言ってしまえば簡単だが、チームをまとめる上での苦労は計り知れない。年俸が億を超える超一流のプロ野球選手と、月給ン10万円の社会人と大学生が同じフィールドで野球をする。ここに少なからずのギャップがないわけはない。

代表監督は東芝の大田垣耕造氏が務めた。この事実から、チーム編成はあくまでアマ主導であることは理解できる。ただ、当時のチームスタッフは「プロが入ることによって、そこで頑張っていた誰かがメンバーを外されることになる。態度や言葉に出さなくても『ハイ、そうですか』と簡単に割り切れない人間がいたことは確かですよ」と証言するなど、一枚岩となるには難しい状況だった。

予選と本番でメンバー入れ替えたプロ側

1999年9月に行われた予選では投手に松坂大輔(西武)、川越英隆(オリックス)、小池秀郎(近鉄)の3人、捕手に古田敦也(ヤクルト)、内野手に松中信彦(ダイエー)、初芝清(ロッテ)、野村謙二郎(広島)の3人、外野手に井出竜也(日本ハム)の計8選手(パ・リーグ各球団から1人、セ・リーグは2人)が選出された。アマ16選手と合わせ24人。このメンバーで五輪出場権を確定させた。

1988年ソウル大会代表で野茂英雄とバッテリーを組んだ古田は、予選を戦い終え「負けたら惜しかったで済まされないし、プレッシャーはあった。オリンピック(本番)では松坂君が(予選では敗れた)韓国をやっつけてくれるでしょう。僕もレベルアップして、シドニーでも選んでもらいたい」と意気込んだ。だが、当時から最強捕手と評価されていた古田が、シドニー五輪に参加することはかなわなかった。

オリンピックが行われる8月~9月はNPBでは公式戦の真っ只中。シーズン中断などの措置を取る予定もなく、特にセ・リーグ球団では選手の拠出に関して議論が重ねられた。その結果、予選とは参加メンバーが変更される形が取られた。

投手には松坂大輔(西武)、河野昌人(広島)、黒木智宏(ロッテ)、捕手に鈴木郁洋(中日)、内野手に松中信彦(ダイエー)、中村紀洋(近鉄)、田中幸雄(日本ハム)、外野に田口壮(オリックス)の8人(パ・リーグから各球団1人、セ・リーグ2人)。アマ側からすれば、全員知っているプロの面々ではある。ただ、予選と顔ぶれが変わり、チームとして馴染む時間などはなかった。

シドニー現地ではアマ選手は当然、チームで選手村に宿泊となった。だが、プロ選手にその義務はなかった。家族を現地に呼び寄せる選手もおり、村外のホテルを手配することに制限をかける理由もなかった。

当時の中村紀洋は「少しでも選手同士の距離を縮めたいと思って、泊まっていたホテルの部屋にアマチュアの選手たちも呼んで食事しましたね。日本の食材を買い出しに行って、鍋パーティをしたりね。短い期間でしたけど、一つのチームになれたとは思います」と振り返る。ただ、野球の試合となると別だ。予選リーグから苦戦を強いられた。

韓国に敗れてメダル逃し、中村紀洋が、松坂大輔が涙

初戦のアメリカ戦で延長13回サヨナラ負け。2戦目からはオランダ、豪州、イタリア、南アフリカに4連勝したが、韓国に6-7、キューバに2-6と連敗を喫した。通算4勝3敗は予選4位。ギリギリの通過となった。

準決勝ではキューバを相手に先発・黒木知宏で臨んだ。当時、球界を代表する投手だった黒木はキューバ打線を8回途中3失点に抑えたが、打線が援護できず0-3の完封負けだった。

韓国との3位決定戦は松坂大輔でメダル死守の決戦に挑んだ。7回まで両チーム無得点の投手戦。だが、8回裏2死二、三塁から李承燁に適時二塁打を浴びるなど3失点。結局、1-3で敗れ、五輪野球で初めてメダルを逃す結果となった。

松坂大輔をリードした鈴木郁洋は数年後に「予選から選ばれておけばとか、そういうのを言ってしまうと言い訳になる。プロなんだし、その状況でベストのプレーをすることだけを考えました。でも、僕も若かったしね(当時25歳)。李承燁に打たれた場面では、今だったら違う配球をしてたかなとも思います」と述懐する。

敗戦後のベンチで号泣した中村紀洋は「本当に悔しかったし、本気でこれでは日本に帰れないなというぐらいの気持ちになった。五輪、日の丸の重みを実感しました」と振り返る。

敗戦を悔しがる先輩たちのただならぬ雰囲気を目撃した松坂は「みんなの姿を見て、もらい泣きしました」と一緒に涙した。

当時、老若男女から多大な期待を背負った20歳は「ただのいい経験で終わるか、経験を生かして財産になるかは自分次第。4年後にまた選ばれたら、この悔しさを晴らしたい」と悔し涙を4年後に生かすことを誓った。

その4年後はオールプロ編成で五輪に挑んだ。ミスタープロ野球・長嶋茂雄が監督に就任した。長嶋ジャパンが悲願の金メダル奪取へ船出。国民の期待は高まったが、思わぬアクシデントに見舞われる事になる。

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