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アテネ五輪野球は情報戦で豪州に敗れ銅…ミスターに金メダル届けられず

2021 8/3 06:00SPAIA編集部
松坂大輔,Ⓒゲッティイメージズ
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Ⓒゲッティイメージズ

長嶋茂雄監督率いるオールプロのドリームチーム

どの大会でもオリンピックともなれば、身も心も削られるような戦いが続いたことだろう。ただ、五輪野球史上最も国民の期待が高まり、プレッシャーがかかったであろう大会はアテネだったかもしれない。

五輪史上初のオールプロ編成。ミスタープロ野球こと、長嶋茂雄監督が率いる、日本球界のドリームチームが集結した。金メダル以外は考えられない。国民の期待をそれぞれに背負い込んだオールスターたちが、シドニー五輪のリベンジを果たすべく招集された。

長嶋監督は2003年11月に行われたアジア予選から「アテネまで全勝でいく。1試合も力を抜くな」とナインにハッパをかけた。メンバーには松坂大輔(西武)や上原浩治(巨人)、城島健司(ダイエー)、福留孝介(中日)ら後のメジャーリーガーも選出された。

プロアマ混成では難しかった、チームとしての一体感作りにはミスター・長嶋監督がひと肌脱いだ。指揮官の発案で10月に誕生日を迎えた小笠原道大(日本ハム)、松井稼頭央(西武)の誕生会を予選期間中に開催。30歳の小笠原、28歳の松井とチームの中心を担う世代の記念日を祝い、結束を深めた。

指揮官が脳梗塞で入院、中畑ヘッドが代行

予選結果は台湾、中国、韓国に3戦全勝で五輪出場を確定。ここまでは筋書き通りに進んでいるように見えた。ただ、信じられないようなアクシデントが起こる。2004年3月に長嶋監督が脳梗塞のため入院したのだ。懸命のリハビリを続け、最後までアテネ入りを諦めない姿勢だったが想いが通じることはなかった。

五輪まで半年もない状況とあって混乱は避けられなかった。星野ジャパン、原ジャパンなど代役が報道されることはあったが、実現には至らず。あくまで長嶋ジャパンを存続することに決まった。ただ、不在の監督を登録できず、中畑清ヘッドが監督を務める形で現地入りするしかなかった。

さらに、6月下旬の正式メンバー発表までに問題も発生した。前年の予選時とは違い、五輪期間中はシーズン真っ只中。それでもNPBは日程を通常通りに消化する方針をとったため、代表への選手拠出に難色を示す球団もあった。

長嶋監督からはドリームチーム結成を優先させたい観点から、各球団から招集する選手数の制限を撤廃する希望が出されていた。だが、最終的には戦力への影響を公平に保つという意味で各球団から2人ずつに決定。この頃はセ・リーグの阪神と中日が優勝を争う立場にあり岡田彰布、落合博満の両監督は五輪への選手派遣に慎重な立場を崩さなかった。

当時の岡田監督は「うちの場合は安藤(優也)と藤本(敦士)やったけどやな、オーストラリアにウイリアムスを取られてるのを忘れんといてほしいなあ。あの当時でいえばセットアッパーの安藤、抑えのウイリアムスを両方取られてるわけやからな。勝ちパターン2枚やで。この影響は計り知れんよ」と話していた。

中日からは福留、岩瀬仁紀の中心打者と守護神を、巨人は上原と高橋由伸の投打の中心を派遣している。不公平はないようには見える。ただ、岡田監督の言うように勝ちパターンのリリーフ2枚を出した阪神は、五輪を境に失速しシーズン4位に甘んじた。

予選リーグで唯一敗れた豪州に準決勝でも敗北

予選メンバーと比較すれば松井稼頭央(西武からメジャー移籍)、谷繁元信(中日)、井端弘和(中日)、二岡智弘(巨人)らが外れる形となった。本番では近鉄から岩隈久志、中村紀洋の投打の主力を補強する形となった。長嶋監督の希望が100%通る形とはならなかったかもしれない。それでもメンバーを見渡すと相当な面々だ。

予選リーグではイタリア、オランダを順当に下すと、キューバに6-3で勝利し3連勝。豪州には4-9で敗れるが、カナダ、台湾、ギリシャに勝利し6勝1敗で五輪初の1位通過を果たした。だが、この豪州戦での黒星が大きなポイントとなった。

8月24日の準決勝の相手は豪州。対戦前のスタッフからの情報では「アマチュアチームで臨んだ大会でも敗れたことはない」と強敵とはみなされていなかった。現在のように「侍ジャパン」が常設されている状況ではなく、国際大会のデータ管理はアマ時代からのスタッフが踏襲していた。これが誤算だった。

結果は0-1で惜敗だった。松坂の力投に応えられなかった。1点を追う7回2死一、三塁の好機では、豪州マウンドにジェフ・ウィリアムスが登板。藤本と虎対決となった。NPBでも左打者を圧倒している左腕に対し、代打も予想された。ベンチには木村拓哉(広島)、金子誠(日本ハム)、相川亮二(横浜)の右3枚が残っていた。だが、ベンチは動かず三飛に打ち取られた。

元中日ディンゴに丸裸にされていた日本

豪州の捕手はディンゴことデーブ・ニルソンだった。2000年に中日に在籍したメジャーリーガーだ。先発・クリス・オクスプリングをリードし福留、高橋、城島、中村らが並ぶ打線を沈黙させた。独特の軌道を描くカーブに苦戦し、中村は「初見で見たことのない軌道の投手が出てくると、その試合の2、3打席だけで対応するのは難しい」と短期決戦の難しさを代弁していた。

ここ一番のピンチで仕事をした阪神のクローザー、ジェフ・ウィリアムスは当時をこう振り返る。

「ディンゴは『五輪で日本戦に勝つために日本野球でプレーしたんだよ』って言ってたよ。それほど日本選手を研究していた。バッテリーが母国語でコミュニケーションを取れるのは大きかったね。僕ももちろんオーストラリア代表の一員として、チームに情報を提供したよ」

情報収集段階での油断が招いた痛い1敗だった。

翌日の3位決定戦ではカナダを11−2の大差で下し銅メダルを獲得した。五輪でのメダル獲得は容易ではないが、ナインとしては悔いの残る大会だった。ミスターがいれば結果は違ったのか…。そういった議論に意味はないが、病床の長嶋監督に金メダルを持ち帰ることができず、悲願は北京大会以降に持ち越しとなった。

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