5年前の忘れ物、悔し涙はうれし涙に
ゴールの直前、雨が上がって雲間から太陽の光が差し、まるで女子マラソン(視覚障害T12)の道下美里(三井住友海上)を祝福しているようだった。東京パラリンピック最終日の9月5日、視覚障害の苦難を受け入れ、いつも明るい笑顔で周囲を太陽のように照らす44歳の世界女王が悲願の金メダルに輝いた。
2016年リオデジャネイロ大会で悔し涙に暮れた銀メダルから5年。レース後は「5年前の忘れ物を絶対取りに行くぞ!って、強い気持ちでやってきた。『最高の伴走者』と『最強の仲間』がいたのでここにたどり着いた。本当にみんなで祝福したいですね」と感極まった表情で声を奮わせ、うれし涙を流した。
超高速ピッチ走法、大好物の唐揚げで祝福
小学4年で膠様滴状角膜ジストロフィーを発症、中学2年で右目の視力を失い、その後、左目も0・01以下と徐々に悪くなった。道下にとっては日々の練習から一緒に走ってくれる人が不可欠。努力の分だけ、周囲の協力も必要になる。
東京大会で「勝つための指標」として設定したのが世界記録だった。最大の武器は超高速の「ピッチ走法」。144センチと小柄ながら足の回転が速く、2000年シドニー五輪金メダリスト高橋尚子さんの1分間のピッチが210歩といわれるに対し、道下は240歩というデータも。
走行距離は月間800キロに及び、2017年12月に「世界最速」タイムを出し、2020年12月にさらに短縮。新型コロナウイルス禍で大会が延期されても鍛錬を欠かさず、2020年12月には2時間54分13秒の世界新記録を出した。
今回レースの伴走者を担当したのは前半がリオ大会に続いて青山由佳さん、後半を走ったのは東海大時代に箱根駅伝に3度出場した元実業団選手の志田淳さんの2人。1キロ4分10秒台のペースを刻み、想定通りに後半勝負に持ち込んだ。
前半は前に出たロシア・パラリンピック委員会(RPC)の選手のペースが落ちた30キロすぎ、道下は志田さんに「行けるか?」と問われ「行ける」と返した。ライバルを引き離して「二人旅」になると笑みもこぼれ、志田さんに「パラリンピック記録を狙いたい」と伝え、前回優勝タイムより53秒速い3時間0分50秒をマークした。
レース後は選手村で大好物の唐揚げを食べて祝福し、伴走した青山さんや志田さんと3時間近くこれまでの道のりを思う存分に振り返ったという。
「チーム道下」の絆
結婚を機に2009年に福岡県に転居後、市民ランナーが多い大濠公園で練習をするようになった。これまで練習の伴走をしてくれた「最強の仲間」は100人以上にも及ぶ。
道下のレベルが上がると、一緒に走れる人も徐々に限られ、最近の練習は市民ランナー10人程度が交代で伴走。伴走者の手と自分の手をつなぐ「ガイドロープ」を道下たちは「絆」と呼ぶ。新型コロナ禍でも早朝の時間帯や人手が少ない郊外を選び、支えてくれたのは「チーム道下」だった。
7000超の応援メッセージも力に
視覚障害を抱え、生きる価値を見失いそうになった苦しい時期もあった。勤務先のレストランで髪の毛の混入を見落として料理人の夢も諦め、実家の書店で働くと、本を探すのが遅いとクレームがついたという。
転機は25歳の頃に山口県立盲学校(現下関南総合支援学校)に通った時代。人前に出るのも苦手だったが、弁論大会にも出場し、今につながる「生きがい」と表現するランニングと出会った。最初はダイエットが目的だったが、走った分だけ結果が出る。そんな感覚が楽しくなり、31歳でフルマラソンに挑戦して今がある。
今大会に向けて地元福岡を中心に7000通を超える応援メッセージもあったという。それを周囲の仲間が読み上げた「音声」を聞いて気持ちを高めてきた。そうして届いた「声」は、心の支えとなった。
本番は沿道での観戦自粛が呼び掛けられ、大歓声の中で走る夢は叶わなかったが「レース中も見えない力を感じながら走れた。自国開催の大会でコロナだったからこそ、今まで経験できなかったことを感じさせてもらった大会。とても今、幸せです」と感謝の思いも忘れなかった。
「5年前の忘れ物」は東京で取り返したが、道下の挑戦は終わらない。「欲を言えばサブスリー(3時間以下)ですね。それを次の目標にしたい」。3年後のパリ大会では世界新での2連覇に早くも目標を定めている。
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