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柔道選手、阿武教子の功績を振り返る

2016 12/16 20:07
阿武教子,Ⓒゲッティイメージズ
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Ⓒゲッティイメージズ

女子柔道日本代表における軽量級の代名詞となったのは谷亮子選手だが、阿武教子選手は重量級の代名詞として長らく活躍してきた。そんな阿武選手のこれまでの功績を振り返っていく。

柔道一家の中で才能を開花

山口県出身の阿武選手は、父の影響ですぐに柔道を始めることになった。兄と姉も柔道をやっていたという柔道一家に育った阿武選手は、父からのスパルタ教育に嫌気が指して一度は柔道を離れるという選択をしたものの、結局は再び柔道に取り組むようになり、頭角を現していった。
もともと高い柔道の才能を持っていた阿武選手は、父のスパルタ教育にもしっかりとついていくことができるようになり、中学生の段階でフランス遠征のメンバーに入るほどになった。

高校、大学で圧倒的な強さを見せる

中学時代から既に実力の片りんを見せていた阿武選手は、柳川高校に入学するとさらなる強さを見せることになる。高校選手権大会、ジュニア国際大会といった数々の大会で優勝を果たすことになるなど、飛ぶ鳥を落とす勢いで成長していくことになり、高校生でありながら世界選手権72kg級代表に選出されたのだ。
世界選手権でも期待通りの活躍を見せて銀メダルを獲得した阿武選手は、その若さで世界トップレベルの選手にまでなった。大学では男子以外の入部を認めない明治大学柔道部に特例で入部を許可されるなど、規格外の存在になりつつあったのだ。

敵無しだった世界選手権

阿武選手の残した功績で最も素晴らしいものといえば、なんといっても世界選手権の成績だ。前述の通り高校生で銀メダルを獲得した阿武選手は、次大会では5位に終わるも、1997年の大会で初優勝を果たす。
レギュレーションが変更されて78kg級での出場になっても強さは一切変わることなく、1999年、2001年、2003年と立て続けに優勝して4大会連続で金メダルを獲得することになったのだ。世界選手権は阿武選手にとって独壇場になった大会であり、今でも柔道ファンに強いインパクトとして残っている。

苦しんだオリンピックとアテネでの歓喜

世界選手権では圧倒的な強さを誇った阿武選手だが、対照的にオリンピックでは苦しむことになる。
1996年のアトランタオリンピックで初めて代表となった阿武選手は、大きな期待を受けながらも初戦で敗退を喫してしまう。4年後のシドニーオリンピックでも同じく初戦で敗退してしまい、阿武選手自身も大きなショックを受けてしまったのだ。
しかし、再び立ち上がった阿武選手は、次大会のアテネオリンピック代表になると、オリンピック初勝利からそのまま優勝を果たし、3度目の正直で金メダリストになった。それまでの苦しみがあったからこそ、その喜びはとても大きなものであった。

現在は後進の育成に尽力

アテネオリンピックで金メダリストになった阿武選手は、この結果を置き土産として現役引退を決断した。その後は柔道の解説者として活動してきたが、2012年には全日本女子特別コーチに就任して指導者としてのキャリアを始動させることになったのだ。
幼少の頃から頭角を現し、高校時代から長年にわたって現役選手のトップを走り続けてきた阿武選手が、これから指導者としてどのような才覚を見せていくのか楽しみだ。

まとめ

若い頃から圧倒的な成績を見せてきたということも素晴らしいが、オリンピックにおいて大きな挫折を経験しながら立ち上がり、最高の結果を残したという点に、阿武教子選手の強い精神力を見ることができる。 今後は彼女の指導を受けた選手たちの躍動に期待したいものだ。