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水泳日本女子初の金メダリスト、前畑秀子選手の生い立ちや功績をご紹介

2016 11/29 21:30
オリンピック,競泳,Ⓒゲッティイメージズ
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Ⓒゲッティイメージズ

世界中の選手たちが競うオリンピック。体格に恵まれた日本人選手も増え、多くのメダルを獲れる時代になった。 中でも体格が重要な競泳だが、女子初の金メダルを獲得した前畑秀子選手を知っているだろうか。 スポーツ好きな方にぜひ知ってほしい、前畑秀子選手の生い立ちや功績を紹介する。

体が弱かった前畑秀子の幼少期

1914年(大正3年)5月20日に和歌山県伊都郡橋本町で、豆腐屋の家に生まれた前畑秀子。
5人きょうだいの2番目として誕生した前畑秀子は、生まれたときから体が弱く、病気ばかりしていた。両親はそんな娘を心配するあまり、たくましくなってほしいとの願いを込めて、男の子のように髪の毛を短髪にして育てた。
両親の思いが伝わったのか、彼女はすくすくと育っていく。3歳の時、地元を流れる紀ノ川に泳ぎに行った。最初は親の背中に乗って泳いだが、いつの間にか泳ぎ方を覚え、毎年5月になるとひとりでも泳ぎに行くほど夢中になった。

天然のプールと水泳部ができた前畑秀子の小学校時代

やがて小学校に入学した前畑秀子。小学生になっても水泳に飽きることはなく、初夏を迎えると友だちや兄弟と紀ノ川にある妻の浦へと泳ぎに行く日々。
4年生になると通っていた小学校に水泳部ができ、得意だった前畑秀子はもちろん入部する。当時は小学校にプールはなく、紀ノ川の流れの緩やかな場所に杭を打ち、板をのせてスタート台を作った。25m先には同じく杭を打ち、ターニング台を製作。天然の25mプールが先生たちの努力によってできあがった。
また、先生たちは正式な背泳ぎやクロール、平泳ぎなどの泳法を大阪まで習いにいき、生徒たちに教えた。

かえる泳ぎから本格的な平泳ぎをマスターした前畑秀子

校長先生から「自分の好きな泳ぎをひとつ選びなさい」と言われた前畑秀子は、迷わず得意だった平泳ぎを選択する。今までの“バチャバチャ”と水しぶきを上げたかえる泳ぎから、本格的な平泳ぎの泳法を学んでいく前畑秀子。
やがて5年生になった時には平泳ぎをマスターし、大阪で行われた学童水泳大会に出場、50m平泳ぎで学童新記録を更新して見事優勝する。指導してくれた先生たちと前畑秀子の努力が実を結んだ結果となった。

数々の記録を打ち立て世界へと羽ばたいた前畑秀子選手

橋本尋常高等小学校高等科(今でいう中学校)に進んだ前畑秀子。高等科1年生の時に出場した大会では、学童新記録だけでなく日本女子新記録も樹立して周囲を驚かせる。高等科2年生の大会では、さらに自身の持つ日本記録を更新。
そして高等科3年生の時、アメリカ・カナダ・ニュージーランド・オーストラリアなどの選手が集まって「汎太平洋女子オリンピック大会」がハワイで開催された。前畑秀子は200m平泳ぎで準優勝、なんと100m平泳ぎでは優勝し、世界へと羽ばたいた瞬間となった。

突然両親を亡くした前畑秀子の哀しみ

世界へと羽ばたいた活躍もあり、日本で初となる室内プールが完成した椙山(すぎやま)高等女学校へと編入。さらに記録更新を目指して日々努力を続ける。
しかし突然、前畑秀子のもとに電報が届く。それは脳溢血で母親が亡くなった知らせで、その5カ月後には父親も脳溢血で帰らぬ人となった。
両親を失った前畑秀子は、水泳を続けられないほど哀しみに明け暮れる。涙を流して女学校をやめたいと校長先生に懇願。豆腐屋だった実家の心配もあり、椙山高等女学校をやめて故郷へと戻った。

哀しみを乗り越えオリンピックで銅メダルを獲得した前畑秀子選手

両親の死から半年。周囲の支えと願いもあって水泳の道に戻ってきた前畑秀子。失った半年を取り戻すため猛特訓に励む。
そして18歳の時にロサンゼルスオリンピックに出場。女子200m平泳ぎで首位と0.1秒差の銀メダルを獲得。自身は日本記録を更新したこともあり満足だったが、周囲からは次こそ金メダルという望みを託されることに。
これ以上続けられるのか不安だった前畑秀子選手だが、「最後までやり遂げることが大切」と語っていた母の教えもあり、次のベルリンオリンピックを目指す。

競泳日本女子として初の金メダルを獲得した前畑秀子選手

次のベルリンオリンピックに出場するからには、今度こそ優勝をと、今まで以上のトレーニングに励む。毎日休まずに努力を重ねた結果、オリンピックの前年に開催された水泳競技大会では、女子200m平泳ぎで世界記録を樹立。
大きな期待を背負ってベルリンオリンピックに出場。世界記録保持者としてのプレッシャーの中、女子200m平泳ぎでわずか0.6秒差で見事優勝し、念願だった金メダルを獲得する。
競泳日本女子として初の金メダリストが誕生した瞬間だった。

まとめ

前畑秀子選手は、母親と父親の死を乗り越えて功績を挙げたこともあり、今でも語り継がれる名選手となっている。 その功績だけでなく、後進の育成にも努めたことから、紫綬褒章や文化功労者などにも選ばれ、1995年に80歳で亡くなった。 競泳界の歴史に残る、競泳日本女子として初の金メダルを獲得した前畑秀子選手を紹介した。