「スポーツ × AI × データ解析でスポーツの観方を変える」

箱根駅伝から五輪メダリストは1人だけ…三浦龍司がパリで88年ぶり快挙狙う

2024 1/9 06:00堺俊輔
三浦龍司,Ⓒゲッティイメージズ
このエントリーをはてなブックマークに追加

Ⓒゲッティイメージズ

パリ五輪はメダル圏内、東京五輪7位で世界陸上6位

第100回を迎えた新春恒例の東京箱根間往復大学駅伝は2024年1月3日、青山学院大が10時間41分25秒の大会新記録を樹立して2年ぶり7度目の総合優勝を果たして幕を閉じた。

箱根を「登竜門」に五輪へと羽ばたくランナーはこれまでも数多く輩出されてきたが、7月26日開幕のパリ五輪でメダルに最も近い存在の1人が三浦龍司(順大)だろう。

2021年東京五輪は3000メートル障害で7位入賞した日本記録保持者。京都・洛南高から順大に進学し、4年生で主将として「ラストの箱根路、楽しんで走ります!」と大学の公式ツイッターで意気込んだ箱根は右足首付近のけがの影響もあって1区10位で終えたものの、2023年夏の世界選手権ブダペスト大会では日本勢過去最高の6位入賞。3位とは1秒72差だった。

名実ともに世界のトップクラスに仲間入りし、確実にメダルへの距離が縮まっており「箱根から世界へ」の理念を体現するランナーの1人でもある。

1936年ベルリン五輪男子マラソンで銅メダルに輝いた南昇龍

箱根駅伝の長い歴史を振り返っても、学生時代に箱根路を経験して五輪メダリストになった選手は過去に1人のみ。戦前の1936年ベルリン五輪の男子マラソンで銅メダルを獲得した故・南昇龍である。

当時日本の統治下にあった朝鮮半島出身で、明大の選手として山上りの5区で区間2位、3区で区間賞に輝いた実績もある。日本出身の箱根ランナーによるメダリストはまだ出現していないのが現状だ。

箱根駅伝を経験して五輪に出場した主な選手


箱根駅伝の「花の2区」で活躍した早大出身のエース瀬古利彦が金メダル候補と騒がれた時期もあったが、全盛期だった1980年モスクワ五輪は東西冷戦下でソ連によるアフガニスタン侵攻を受け、日本など西側諸国がボイコット。

マラソンは伝統のボストンやロンドン、シカゴも制して15戦10勝と圧倒的な強さを誇りながら、1984年ロサンゼルス五輪は14位、1988年ソウル五輪は9位といずれも実力を出しきれず、悲運の名ランナーともいわれている。

世界選手権の1991年東京大会で男子マラソン金メダルに輝いた谷口浩美は日体大時代に箱根でも活躍したが、五輪では1992年バルセロナ大会で足を踏まれて転倒したのが響いて8位、1996年アトランタ大会で19位。

長野・佐久長聖高から早大に進学してエースとして活躍した大迫傑は2021年東京五輪で6位入賞と暑さの中でも健闘したが、表彰台には一歩届かなかった。

マラソンの父、金栗四三の思いが箱根駅伝の原点

大正、昭和、平成、令和の各時代で幾多のドラマを生んできた箱根駅伝の歴史は1920年までさかのぼり、早大、慶大、明大、東京高師(現筑波大)の4校が参加して第1回大会が開かれた。

大会創設の原動力になったのは「マラソンの父」として知られる金栗四三らが「世界に通用するランナーの育成」を掲げた思い。NHK大河ドラマ「いだてん」の主人公の1人でも話題となった日本初の五輪マラソン選手である金栗自身は、東京高師の学生時代に日本が初参加した1912年ストックホルム五輪に短距離の三島弥彦とともに初出場。しかしレースは「熱中症」で無念の途中棄権に終わり、失意のまま帰国した経緯がある。

そんな陸上界の大先輩たちの次世代に託した思いと情熱を背負い、学生陸上界のエース三浦龍司は箱根駅伝を糧に、実業団チームのスバルに進んでパリ五輪を目指す。

東京でメダルに届かなかった大迫傑も元日恒例の全日本実業団対抗駅伝でGMOインターネットグループの一員として6区を走り、区間2位の力走を見せた。マラソンで再びパリ切符を獲得する可能性も十分ある。

2023年12月には陸上の日本選手権1万メートルで塩尻和也(富士通)が27分9秒80の驚異的な日本新記録で初優勝した。彼もまた順大時代に箱根路を駆けたランナーであり、パリ五輪を視界に捉えている。

「箱根から世界へ」。その精神は脈々と受け継がれ、五輪でメダルの可能性は着実に膨らんでいる。

【関連記事】
第100回箱根駅伝で青山学院大が圧勝した理由、各校が束になってもかなわなかった驚異的タイム
「1強」の呼び声高かった駒大は、なぜ第100回箱根駅伝で敗れたのか
大学3大駅伝の歴代優勝校 出雲、全日本、箱根の3冠達成は5校、青山学院大が駒澤大の2年連続阻む