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スピードスケート「清水宏保」~偉大なる功績~

2017 2/9 18:26
スピードスケート
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出典 www.asahi.com

清水宏保は、日本スピードスケート界に初めてオリンピックの金メダルをもたらした選手だ。 今回は、清水宏保の生い立ちから功績までを紹介する。

生い立ち

清水宏保は、1974年2月27日、北海道帯広市生まれ。実家は建設会社だった。幼少期は喘息やアトピー性皮膚炎を患い、身体が弱い子どもだったが、そのことから父親が身体を鍛えさせるためにと、さまざまなスポーツに挑戦させ、その一端としてスケートを始めたのだった。
練習はとてもきつく、朝4時半から朝練が始まり、放課後は午後7時まで練習する日々が続いた。その練習は常に父の付き添いのもとで行われ、親子二人三脚でスケート漬けの毎日を過ごす。

最愛の父との別れ

中学時代もスケート漬けの日々を過ごした清水宏保は、スケートの名門校「白樺学園高校」に進学した。高校でもその非凡な才能を見せるが、高校2年生の時、小学生の頃からがんを患っていた父が入院を余儀なくされる。清水は何度もお見舞いに行くが、そのたびに追い返されてしまう。
そんな状況で臨んだ高校総体。そこで彼は、1000m、1500mで優勝を果たした。優勝後、父はビデオを何度も見て、静かに息を引き取った。しかし、彼は通夜の日でも休まず黙々と練習した。それは、練習を続けることによって父が喜ぶと信じていたための行動だった。

目指した「アルベールビル」

苦難を乗り越えた清水宏保は、高校3年生の頃にはアルベービルオリンピックの代表選考会に出場できるまでになる。持ちタイムでは十分にオリンピックの切符獲得も視野に入っていたが、ひとつのトラブルが起きる。
それは大会の宿泊先が企業の保養所だったため、あまり掃除が行き届いておらず、幼少期から患っていた喘息の発作が起きてしまったのだ。この影響は大きく、選考会では4位という結果に終わり、オリンピック出場を逃してしまう。

母国で開催された「長野オリンピック」

アルベールビルオリンピックを逃した清水宏保だが、その後、W杯初出場初優勝、世界スプリント総合3位、リレハンメルオリンピック出場など、数々の優秀な戦績を残し、1998年には母国で開催される長野オリンピックに満を持して臨んだ。
従来、大柄な選手が有利と言われ続けていたスピードスケートで、小柄な体格で世界と渡り合ってきた清水宏保。レーススタート時の「ロケットスタート」を武器に、500mで見事金メダルを獲得した。これは、日本のスピードスケート選手として初めての金メダルだった。

日本人初の「プロ契約」と引退

長野オリンピックの直後、清水宏保は日本で初めてのプロスケーターとなった。その後も、2002年のソルトレイクオリンピックで銀メダルを獲得。2006年のトリノオリンピックにも出場した。 2010年のバンクーバーオリンピックも目指すが、成績が振るわず代表落ち。その結果を受け、翌年現役を引退した。
引退後は、母校の日本大学大学院に入学、テレビ中継解説、選挙立候補、接骨院開院など、さまざまな分野に挑戦している。

まとめ

清水宏保は、オリンピックで3つのメダル獲得、W杯で通算34回優勝など、世界の第一線で活躍してきた、日本が誇るスケーターだ。
喘息の研究や、接骨院での腰痛の改善など、自分自身が現役時代に悩んできた事柄への貢献も行っている。 今後、オリンピックで清水に次ぐ金メダリストが誕生するのか注目していきたいところだ。

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