生い立ち
長島圭一郎は1982年に北海道池田町利別で生まれた。実家は畜産業を営んでおり、スケートとは無縁の環境だったが、北海道という土地柄と2人の姉がスケート遊びをしていたことで、3歳からスケートを始めた。
中学時代にはスケート部と野球部を掛け持ちした。その後、転機となったのが、高校進学の際に野球で推薦をもらえなかったことだった。そのため高校ではスケート部に専念し、才能が開花し始める。
長島圭一郎は1982年に北海道池田町利別で生まれた。実家は畜産業を営んでおり、スケートとは無縁の環境だったが、北海道という土地柄と2人の姉がスケート遊びをしていたことで、3歳からスケートを始めた。
中学時代にはスケート部と野球部を掛け持ちした。その後、転機となったのが、高校進学の際に野球で推薦をもらえなかったことだった。そのため高校ではスケート部に専念し、才能が開花し始める。
地元の池田高校に進学してスケート部に入った長島は、当初は長距離種目の選手だった。長距離の選手としてはなかなか結果が出ない日々が続くが、高校3年生の時に短距離種目に挑戦したことから転機が訪れる。
短距離種目の全日本ジュニア選手権500m、インターハイ1000mで立て続けに優勝したが、これが短距離転向後3カ月ほどでの出来事だったことから、いかに短距離種目に適性があったかがわかるだろう。
当初は明治大学へスポーツ推薦での入学を希望していたが、それは叶わず、日本大学文理学部体育学科に進学することになった。入学後は学生氷上選手権で活躍したが、1~3年生の時は優勝できず、4年生時の2004年ユニバーシアードで優勝した。
卒業後は日本電産サンキョーに入社し、その年の全日本スプリント選手権で優勝。2006年トリノオリンピックの切符を手に入れた。しかし、初のオリンピックはほろ苦い大会となる。
全日本スプリント選手権の優勝という結果を引っさげ、満を持して挑んだトリノオリンピックだったが、長野オリンピックの金メダリスト清水宏保や、大会以前から注目されていた加藤条治、及川佑の陰に隠れる形となり、500mは13位、1000mは32位という結果に終わった。
結果的には惨敗だったが、オリンピックをきっかけに国際大会で結果を残し始める。2006年のW杯で初優勝を果たし、2010年のバンクーバーオリンピックに向けて、好調を維持し続けた。
2度目のオリンピックとなった2010年のバンクーバー大会。その前に2007年、2008年に日本新記録を出すなど、選手としての全盛期を迎えつつあった長島は、1000mこそ37位に終わったが、500mでは銀メダルを獲得した。
2014年のソチ大会ではオランダ勢の壁があまりにも高く(オランダ代表20人でメダル23個)、500mで6位入賞という不本意な結果に終わり、翌年には現役引退を決めた。
2015年に引退した後、日本電産に残ってスピードスケートの普及活動を続けていたが、2016年1月に同社を退社して現役復帰を発表した。
長島は復帰会見で、金メダルを獲得できないという自分の才能のなさを自覚した上で、才能がないなりにチャレンジをしたいという決意を表明した。フリーとしての活動のため、企業に属している選手よりも懐事情は厳しいが、2018年平昌オリンピックでの金メダル獲得に向けて活動している。
一度現役を引退した選手が、再び現役復帰して活躍することは難しい。それでも現役復帰を決め、活動資金もままならないにもかかわらず挑戦を続ける姿は見事と言うほかない。今後の長島圭一郎の活躍に注目だ。