生い立ち
黒岩彰は群馬県吾妻郡嬬恋村出身だ。嬬恋村では、スケートは娯楽として盛んだったので、ごく当たり前のようにスケートを始めた。滑る場所も、校庭のスケートリンクのほか、田んぼに水を張って凍らせ、その上を滑るなどしていたようだ。
しかし、当時の彼はスケートは得意ではなく、同級生の女子に負けてしまうこともあった。他のソフトボールや自転車などのスポーツでは負け知らずだったものの、スケートだけは苦手だったのだ。
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これまでに輝かしい実績を残してきた、日本のスピードスケート界のパイオニアともいえる人が黒岩彰だ。 今回は、彼の生い立ちから功績までを紹介する。
黒岩彰は群馬県吾妻郡嬬恋村出身だ。嬬恋村では、スケートは娯楽として盛んだったので、ごく当たり前のようにスケートを始めた。滑る場所も、校庭のスケートリンクのほか、田んぼに水を張って凍らせ、その上を滑るなどしていたようだ。
しかし、当時の彼はスケートは得意ではなく、同級生の女子に負けてしまうこともあった。他のソフトボールや自転車などのスポーツでは負け知らずだったものの、スケートだけは苦手だったのだ。
負けず嫌いだった黒岩は、女の子に勝つため、中学校ではスケート部に入部する。そして、競技を始め出すと中学2年の時には軽井沢の大会で優勝する。
そこからは順調に成長を重ね、中学3年の頃には目標も高くなり、中学記録を出すという目標を立てる。すると、あっさりと群馬県の中学校記録を達成してしまう。
とんとん拍子で成長し続ける黒岩は、高校2年の時に500mでインターハイ制覇。高校3年の時には「世界」を意識するまでに成長する。
高校3年となり、黒岩はレークプラシッドオリンピック出場を目指して全日本スプリントに出場するが、上位に入ることができず、オリンピック出場を逃してしまう。これまで急激な成長を続けて、順調にキャリアを積み上げてきた黒岩にとって、初の挫折となった。
この当時、競技自体は嫌いだったと、引退後のインタビューで答えている。しかし、自分が立てた目標をクリアできることに魅力を感じ、やめられなくなったとも語っている。
専修大学商学部に進学した黒岩は、オリンピックは逃したものの、1年の時に全日本スプリントで優勝した。世界スプリントでも6位となり、その実力が本物であることを証明する。さらに、3年の時の世界スプリントでは日本人初となる総合優勝を果たした。
4年の時に開催されたサラエボオリンピックでは、世界スプリントで優勝していたこともあり、優勝候補に挙げられたが、10位に終わってしまう。しかし、その4年後、カルガリーオリンピックでは、自己ベスト記録で悲願の銅メダルを獲得した。
メダル獲得後の1988年に現役を引退。監督に就任し、1998年の長野オリンピックでもコーチとして選手の指導にあたった。
その後は、プロ野球の西武ライオンズに出向し、広報課長と運営部長になった。2004年に西武ライオンズの球団代表に就任。2007年にはプリンスホテルに異動し、プリンスホテル営業支配人に就任した。このように、スケート以外にも、プロ野球チームの運営、ホテルの支配人など、多方面で活躍したのだ。
そして、2008年には富士急行スケート部監督となり、スケート界への復帰を果たす。
以上、黒岩彰について紹介した。
世界スプリントで日本人初の総合優勝を果たすなど、まさに日本スケート界のパイオニア的存在といえる。
さらに、選手、監督、球団運営など、多彩な才能の持ち主でもある。
今後も黒岩彰のスケート界への貢献に注目したいと思う。