撮影権を争うカメラマン同士の「裏トーナメント」
FIFAクラブワールドカップ開幕戦の撮影を終えて、1年1ヶ月ぶりのブランクを痛感しながらホテルに戻った。
21時キックオフのアルドゥハイルvsアル・アハリの一戦をホテルの一室で確認しながら準決勝の編集をしていて感じたのは、選手自身の一瞬の輝きを切り撮る難しさ。これまではその競技、選手の得意プレーがどこにあるかなど被写体の本質部分に本能と感覚で辿り着いていたはずが、全くその瞬間を撮っている作品がなく、本当の意味での撮影の難しさを痛感した。
ただ、この感覚はそこまで深く考えてこなかったが、考えなければその領域には行けないという事実や、その領域に行ったらどのような作品になるかなど、興味や課題が多く見つかったことがその時の自分には大きかった。
翌日、FIFAから5位決定戦ではなく南米チャンピオンのパルメイラスが試合をする準決勝の撮影許可がおりた。正直、ホッとしたが、不完全燃焼だった開幕戦の課題、そしてパルメイラスの準決勝、さらに翌日に行われるヨーロッパチャンピオン、バイエルン・ミュンヘンの試合を撮影できるFIFA選定の20人に入るための対策など、やることは盛り沢山だった。
いつものように試合前にPCR検査を受けてスタジアムに向かった。南米チャンピオン・パルメイラスが試合を行う会場は、今回のFIFAクラブワールドカップ決勝が行われるスタジアムだったので、ピッチを見て必ず決勝当日に戻ってくると誓った。
Ⓒ小中村政一
なぜなら、初めて来たこのスタジアムにもう一度来るには、この準決勝と翌日に控えている準決勝で結果を出さなければ不可能。クラブワールドカップの裏側では、カメラマンの裏トーナメントみたいなものが行われていた。
最高の席から撮影できた準決勝第1戦
準決勝もFIFAが用意してくれた席は開幕戦同様、メインスタンド側のコーナーサイド。カメラマンとしては最高の席だった。準決勝開始前に準備した対策や、撮影する選手の最終的なピックアップなどを終えてキックオフの笛を待った。
例年、南米チャンピオンの初戦の動きは最悪で、いつも厳しい戦いを強いられているのだが今回もかなり厳しいコンディションだった。というのも、1月30日にリベルタドーレス杯(南米チャンピオン決定戦)が行われて、1週間後の2月8日にはカタールで試合をしなければならない状況だったからだ。
結果的に中南米カリブ海王者で、開幕戦を撮影したティグレスが1−0で勝利して最初の決勝戦進出を果たした。パルメイラスは、1点も取ることができずに3位決定戦に回ることになった。
Ⓒ小中村政一
この試合は、決勝で撮影することを念頭に各選手のプレースタイルにアジャストしていくことだけを考えた。自分の撮影したい意思をしっかりと持ち、枚数ではなく質を追い求めた結果、試合終了後スタジアムにいる間に翌日のバイエルン・ミュンヘンが出場する準決勝の撮影権をつかむことができた。
翌8日の準決勝当日の朝、すぐにPCR検査を受けに行き、試合に備えて再びホテルへ戻った。21時キックオフにも関わらず、この日は16時に運転手に迎えに来てもらったが、セキュリティーが強化されていてメディア入場が18時からだったため1時間半ぐらい待たされた。
Ⓒ小中村政一
18時になりメディアセンターに行くと、前日の試合まで撮影したメインスタンド側の席ではなくバックスタンド側のコーナーサイドの席に変わっていた。
今までは1日に2試合が行われ、カメラマンはどちらか一方の試合に振り分けられていたが、この準決勝当日はヨーロッパチャンピオン、バイエルン・ミュンヘンの試合のみ行われるため、世界から呼び寄せられた40人のカメラマンの中から20人はカットされているのだ。
40人体制で行われる試合で20人ずつ2組に分けると私は上位に入るが、20人の中ではギリギリにランクされているという事実に直面した。最初は正直ショックだったが、裏を返せば20人には入れているし、FIFAに叱咤激励をもらえたと思えた。この準決勝で、結果を出せば11日に行われる決勝にも行けるし、このポジションを誰にも奪われたくないという気持ちが強かった。
バイエルンのスピードに悪戦苦闘
ただ、試合が始まると、気持ちとシャッターのタイミングが全く合わず、何よりバイエルン・ミュンヘンのパススピードとシュートのタイミングについていけなかった。少なくとも前半20分はバイエルン・ミュンヘンに私自身、何も撮影をさせてもらえない状態だった。ただただ撮らされている撮影が続き、本来撮りたい写真は全く撮れなかった。
前半30分頃から急に選手と撮影感覚がアジャストしてきて、キーパーのパンチングのタイミングやヘディングのタイミング、シュートのタイミングなどほぼ完璧な状態で合うようになってきた。
Ⓒ小中村政一
この瞬間に1年1ヶ月ぶりのブランクを埋めたように感じた。連射を使わずに1枚1枚を狙って撮っているため、選手との息が一度合えば面白いように撮れることも同時に思い出させてもらった。
最高の状態で準決勝を終えた。もし決勝戦のカメラマンに選ばれなくとも後悔はないと思える撮影だった。とはいえ、選ばれるか選ばれないかはすごく気にしながら翌9日の夕方を迎え、決勝戦の選抜20人に選ばれた。
この瞬間すべてのプレッシャーと緊張とイライラがぶっ飛んだ。ここからは決勝を楽しもうと気持ちを切り替えた。そして決勝前日の10日に大問題が起きた。
バタバタのPCR検査
いつものようにFIFAが指定した場所にPCR検査を受けに行ったものの、そこには誰もいない。いたのは私と同じPCR検査に来た人だけで、検査は実施されていなかった。事前にFIFAからもらったPCR検査のレギュレーションを見直しても10日19時までは毎日検査を実施していると明記されていた。
Ⓒ小中村政一
なぜこのような状況になっているのかがわからず、検査場のセキュリティーに聞いても今日はやってないの一点張り。仕方がないので一旦ホテルへ戻った。
状況が飲み込めないまま、どうすればいいかもわからず、在カタール日本大使館に電話をして調べてもらった結果、決勝前日10日ではなく8、9日が決勝のPCR検査日で前日はやっていないということだった。しかも検査を受けていなければ選抜20人に選ばれていてもスタジアム内に入場することはできないと大使館の方に言われた。
その時は地獄を見た思いで、日本の所属事務所の社長、並びにマネージャーにも電話をした。しかし、ふと大使館の方の言葉を思い出した。8、9日に決勝のPCRを実施したという言葉を。
8日のバイエルン・ミュンヘンの試合当日の朝PCR検査を受けたのが、もしかしたら有効ではないのか。藁にもすがる思いで再び大使館に連絡し、決勝のPCR検査終了後にもらえるステッカーの色を確認してもらうと、準決勝当日にもらった紫のステッカーだと判明。その瞬間、全ての問題が解決した。
いろいろあった決勝前日だったが、本番に向けて準備が整った瞬間だった。そこから記憶がなくなり、気がつけば11日決勝当日の朝になっていた。
当日は3位決定戦が18時からで、決勝が21時からとタイトなスケジュールだった。
今だから書けるが、準決勝ぐらいから試合の日が来るのが怖かったし、来てほしくない、撮影したくないという心境だった。というのも極度の緊張と、毎試合カメラマンがふるいにかけられるプレッシャーなどで、いつもは楽しんで撮影している自分が、楽しむどころか恐怖を感じていた。
ゴールシーンなくカメラマン泣かせの展開
当日は13時過ぎにホテルを出て14時前にはすでにスタジアムに着いた。運命の撮影座席はバックスタンド側のコーナーサイドだった。この場所で3位決定戦と決勝の2試合を撮影することになった。
また、決勝終了後の表彰式のレギュレーション説明を受けたが、自席で撮影するか、6階のメインスタンドで撮影するかの選択だった。毎年、真正面から撮影できた表彰式が撮れなくなっていた。
説明を受けてそのままピッチに向かった。最後の撮影ポジションの確認と自分がここにいる意味、そしてここにいることに感謝をしつつ、撮影に挑んだ。
3位決定戦はアル・アハリが勝利した。南米チャンピオン、パルメイラスが結局このクラブワールドカップで1勝もできず、1得点も奪うこともできずに大会を去った。0-0でのPKということもあり、シャッターチャンスすら来ない状態だった。
Ⓒ小中村政一
前の試合がPKで時間が押したこともあり、すぐに決勝のアップが始まった。バイエルンは準決勝に出場していたボアテングが元彼女が亡くなったため、ミュラーはコロナ検査陽性のため出場できなくなり、大幅な戦力ダウンを余儀なくされた。
試合は前半終了時点で0-0だったため、前の3位決定戦を含めて120分以上得点のない、非常にカメラマン泣かせの展開だった。ただ、その瞬間はいつ訪れるかわからないし、得点だけが試合を象徴するシーンだとは限らないため常に気を張った撮影を2試合こなすのは集中力との戦いでもあった。
最終的には後半59分にバイエルンのDFパバールがこぼれ球を押し込み決勝点となった。決勝終了後は、FIFAに指定された6階から撮影したが、写真映えしない表彰式だった。
大会が終了して緊張の糸が切れた私を、この大会中ずっと運転手をしてくれていたネパール人のカイトが労ってくれた。そのまますぐにスタジアムを後にして、最初にカタールに来た時からお世話になり続けている友人のレストランに車を走らせてもらい、オーナーに食事をご馳走してもらった。
午前2時過ぎにホテルに戻ると、3位決定戦の写真編集をしたところで力尽きた。翌日はカタールに来て初めて10時過ぎまで寝ていた。
隔離期間中を含めて試合が夜ということもあり、ほとんど目覚ましをかけなかったが、いつもは遅くとも6時から7時までには目を覚ましていたので、ここで自分がプレッシャーから解放されて、蓄積された疲れがどれだけだったのかが理解できた。
ようやく重圧から解放も最後のPCR検査でまたドタバタ
決勝翌日12日は、ホテルから一歩も外には出ずに決勝戦の編集と記事を書くことに明け暮れた。そして、昼過ぎに翌日PCR検査を受けに行くための予約を民間病院に入れた。
その電話では、13日の予約がいっぱいなのか、やっていないのかはわからなかったが14日の午前10時に検査に来て、帰国する15日の夕方17時に検査票を取りに来てくださいとアナウンスされた。15日22時には飛行場に行かなければならないのに、ぎりぎりで何かあれば帰国延期になるというリスクも考えたが、その当時もう何もする気力がなかった。
帰国前日にPCR検査を受けに病院に行くと、案の定今日検査を受けても、検査結果は最短で24時間から48時間かかると言われる始末。48時間もかかってしまうと翌日のフライトに間に合わないと言ったが、そんなの知らないとなしのつぶてだった。
ごねても仕方がないと思い、その日はそのまま24時間で検査結果が出ることを信じてホテルに戻った。病院からは検査結果が出次第すぐに電話をすると言われたが、翌日17時になっても電話が来なかったため病院に行くと、検査結果が出ていた。出ていたなら電話してこいよ!と思ったが、口には出さなかった。
そのまま検査書をピックアップしてホテルに戻り、帰国の準備をして最後にホテルマンに挨拶し、運転手のカイトに空港まで送ってもらった。こうして無事、16日午前2時発のカタール航空でドーハを後にした。
Ⓒ小中村政一
コロナ渦だからこそ大切な「準備」と「行動」
今回の大会で一番感じたことは、コロナ過であろうともスポーツイベントが行われている限り、世界中のトップカメラマンは常に見られていて、いつ呼ばれても撮影に行ける準備と対策はしておかなければならない。このSNS時代に活動しているカメラマンと活動していないカメラマンの差など調べればすぐにわかる。
それを肌で感じたからこそ、決勝に間に合うように私自身のホームページをリニューアルし、各言語にも対応して自分の活動内容がわかるようにした。
コロナのせいにするのは簡単だが、そんな中でも活動しているカメラマンは世界中にいてそこでどう自分の存在意義を示せるかは自分次第。本当に必要とされるカメラマンなら入国もさせてもらえる。ただ、それも準備と行動を起こさなければ、何も始まらなかっただろう。
カメラマンの世界だけでなく、今この時代だからこそ自分ができる精いっぱいの行動をしなければならない。そんな風に感じた今回の撮影だった。
【関連記事】
・FIFA公認カメラマンの渾身ルポ、クラブW杯開催のカタールで完全隔離生活
・クラブW杯を撮影する日本人カメラマンの情熱…体の震えが止まらなかった開幕前夜
・苦境に立たされる久保建英の打開策は?ヘタフェは空中分解寸前