「スポーツ × AI × データ解析でスポーツの観方を変える」

Jリーグ30年 偉大なるジーコの功績、鹿島の礎を築いた46ゴールの価値

2023 5/11 06:00SPAIA編集部
ジーコ,Ⓒゲッティイメージズ
このエントリーをはてなブックマークに追加

Ⓒゲッティイメージズ

1993年のJリーグ開幕から30年

1993年5月15日、旧国立競技場でヴェルディ川崎対横浜マリノスのJリーグ開幕戦が行われた。前年にリーグ戦に先立ってヤマザキナビスコカップが開催され、ヴェルディ川崎が優勝。三浦知良、ラモス瑠偉、武田修宏らニュースターが誕生し、日本中が空前のサッカーブームに沸いた。

Jリーグ開幕戦には5万9626人の大観衆が詰めかけ、川淵三郎チェアマンが開会宣言。マイヤーの記念すべきJリーグ初ゴールでヴェルディが先制したが、エバートンとディアスのゴールでマリノスが逆転勝ちした。

日本サッカーの大きな転換点となったあの日から30年。Jリーグの発展に大きく貢献した一人がジーコだ。その功績を改めて振り返りたい。

引退後に住友金属のオファー受けて現役復帰

現役時代はブラジル代表として1978年アルゼンチン大会、1982年スペイン大会、1986年メキシコ大会のワールドカップ3大会に出場。トニーニョ・セレーゾ、ファルカン、ソクラテスと中盤を形成した「黄金のカルテット」は世界中のファンを魅了した。

ブラジルのフラメンゴでは731試合に出場して508得点。イタリア・セリエAのウディネーゼでもプレーし1989年に引退、ブラジルのスポーツ担当大臣に就任した。

しかし、1991年にプロリーグ参加を表明していた当時日本リーグ2部の住友金属からオファーを受け、現役復帰を決意。すでに38歳になっていた英雄の一大決心だった。

来日すると、まだアマチュアだったチームメイトにプロとしての心得を説いた。1991年7月26日の磐田市長杯・ヤマハ発動機戦で直接FKから移籍後初ゴール。自らプレーでチームを引っ張り、選手一人ひとりの意識と技術も少しずつ変わっていった。

鹿島アントラーズとして臨んだ1992年のヤマザキナビスコカップでは、サンフレッチェ広島戦でハットトリックをマークするなど10試合6得点。準決勝でヴェルディに敗退したものの手応えをつかんだ。

ジーコが日本で決めた46ゴール

1993年5月16日、前夜の国立の余韻が冷めやらぬ中、新しいホームスタジアム、カシマサッカースタジアムに1万898人が詰めかけた。今から考えると少ない数字だが、まだまだプロスポーツの根付いていない街でジーコのたゆまぬ努力が実を結んだ開幕戦だった。

対戦相手の名古屋グランパスエイトには元イングランド代表のリネカーが加入し、大物対決として注目されたが、試合は一方的な展開。ジーコがいきなりハットトリックを決め、5-0で大勝したのだ。

ブラジルから呼び寄せたアルシンドは陽気なキャラクターで人気も沸騰。CMにも起用されるなど初期の鹿島を象徴する選手の一人となった。

ほかにも秋田豊、本田泰人、長谷川祥之、黒崎比差支らジーコの薫陶を受けた選手が大活躍。見事にファーストステージ優勝を飾った。

ジーコは1994年6月15日のジュビロ磐田戦で最後の公式戦に出場し、7月のオールスターにフル出場したのを最後にブラジルへ帰国。1995年に鹿島のテクニカル・アドバイザーに就任し、2002年から2006年のワールドカップドイツ大会まで日本代表監督を務めた。

住友金属時代から鹿島時代までリーグ戦、カップ戦も合わせて決めたゴールは通算46(Jリーグでは14得点)。鹿島アントラーズはその後三大タイトル19冠を誇る強豪クラブとなった。ジーコなくして今の鹿島はあり得ないだろう。サッカーを愛し、鹿島に注いだ情熱は今も脈々と受け継がれている。

【関連記事】
サッカーブラジル代表通算ゴール数ランキング、ネイマールは日本戦で最多9得点
サッカーACL歴代優勝チーム、浦和レッズが史上最多3度目のアジア制覇
サッカーYouTuberのLeo the football氏が著書出版、情熱を助ける理屈のサッカー論