背番号18を背負う意味とは
「十八番(おはこ)」とは最も得意な物事を指す言葉で、日本のプロ野球界ではエースナンバーとされることが多い。サッカーでは、サブのフォワードやゴールキーパーがつけるイメージもあったが、現在では攻撃的なアタッカータイプがつけることが多くなっている。
エースストライカーが背番号9であることから、その倍数の背番号18を選手自ら望んだり、次期エースと期待される選手に与えられることもある。歴代のサッカー日本代表で18番を背負ってきた主な選手を紹介する。
「十八番(おはこ)」とは最も得意な物事を指す言葉で、日本のプロ野球界ではエースナンバーとされることが多い。サッカーでは、サブのフォワードやゴールキーパーがつけるイメージもあったが、現在では攻撃的なアタッカータイプがつけることが多くなっている。
エースストライカーが背番号9であることから、その倍数の背番号18を選手自ら望んだり、次期エースと期待される選手に与えられることもある。歴代のサッカー日本代表で18番を背負ってきた主な選手を紹介する。
城彰二は鹿児島実から1994年にジェフユナイテッド市原に加入し、デビュー戦から4試合連続ゴールを決めて注目された。1997年に横浜マリノスに移籍し、2000年にスペインのバリャドリードへ移籍。その後、ヴィッセル神戸、横浜FCとわたり歩き、2006年に引退した。J1通算230試合で95得点を挙げている。
日本代表で印象的だったのは、何と言ってもフランスワールドカップだろう。日本が初出場した大舞台の直前合宿で岡田武史監督は三浦知良を外し、城をエースとして起用。しかし、ゴールを決めることはできず日本は3戦全敗で敗退した。その時の背番号が18。帰国した成田空港で心ないファンから水をかけられるなど辛酸をなめた。
しかし、1997年のワールドカップアジア第3代表決定戦のイラン戦で同点ゴールを決めたのは城だ。「ジョホールバルの歓喜」と呼ばれる日本サッカー史に残る一戦で刻んだ功績は色褪せない。国際Aマッチ通算35試合で7得点を挙げている。
小野伸二は清水商から1998年に浦和レッズ加入。「天才」の名を欲しいままにし、2001年にオランダのフェイエノールト入りすると通算112試合で19得点を挙げた。その後、浦和を経て2008年からドイツのボーフムに移籍。さらに清水を挟んで、2012年からオーストラリアのウェスタン・シドニーでプレーするなど海外で実績を上げた。
2014年から北海道コンサドーレ札幌のユニフォームに袖を通し、FC琉球を経て、2021年から札幌に復帰。今も現役としてプレーしている。
日本代表では18歳で1998年のフランスワールドカップに出場(背番号11)。2002年の日韓共催ワールドカップ、2006年のドイツワールドカップには背番号18で出場した。国際Aマッチ通算56試合で6ゴールを挙げている。
楢崎正剛は奈良育英高から1995年に横浜フリューゲルスに加入し、クラブ消滅に伴って名古屋グランパスエイトへ移籍した。2009年7月の浦和レッズ戦で史上初のJリーグ公式戦100完封を達成するなど、長らく守護神として活躍。2018年限りで引退するまで、遠藤保仁(ジュビロ磐田)に次ぐJ1通算631試合に出場した。
日本代表としては、フランスワールドカップはメンバー入りしたものの出場なし。2002年日韓共催ワールドカップでは川口能活に代わって正GKとして全4試合に出場した。2006年ドイツワールドカップと2010年南アフリカワールドカップはメンバー入りしたが出場機会はなかった。国際Aマッチ通算77試合に出場している。
川口とともに長らく日本のゴールマウスを守り続けた楢崎。引退後はJFAコーチを務めるなど日本サッカー界の発展に尽力している。
本田圭佑は星稜高から2005年に名古屋グランパスエイトに加入。2008年にはオランダのVVVフェンロへ移籍し、ロシアのCSKAモスクワ、イタリアのACミランなど海外クラブをわたり歩いた。
日本代表では2010年の南アフリカワールドカップに背番号18で出場。2014年のブラジルワールドカップ、2018年のロシアワールドカップは背番号4だった。国際Aマッチ通算98試合37得点を挙げている。
無回転フリーキックや派手な言動、パフォーマンスでも注目を集め、常にスポットライトを浴びてきた、紛れもないスター選手だ。2018年からカンボジア代表の実質的な監督を務めるなど活動の幅を広げ、様々な分野で活躍している。
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