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サッカー日本代表の歴代監督と成績、五輪やW杯を目指した栄光と苦難の歴史

2022 12/29 06:00SPAIA編集部
日本代表の森保一監督,Ⓒゲッティイメージズ
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Ⓒゲッティイメージズ

ワールドカップカタール大会で日本はベスト16

サッカーのワールドカップカタール大会はアルゼンチンが優勝した。日本はグループステージ初戦でドイツに逆転勝ちし、3戦目でスペインも撃破。決勝トーナメント1回戦でクロアチアにPK負けして目標のベスト8には届かなかったものの、ベスト16入りを果たした。

ワールドカップには7大会連続出場となり、出場は当たり前のように言われるが、1998年のフランス大会に初出場するまでは予選敗退を繰り返し、「悲願」を達成するまで長い年月を要した。改めて歴代の日本代表監督を振り返ってみたい。

サッカー日本代表の歴代監督


メキシコ五輪銅メダルに導いた長沼健監督

戦後復興の象徴でもあった1964年東京五輪に出場した時の監督は長沼健だった。中央大学卒業後に古河電工でプレーし、1962年に32歳の若さで日本代表監督に就任。東京五輪を見据えてドイツから招聘されたデットマール・クラマーコーチが長沼の能力を見込んでの抜擢だった。

迎えた1964年10月の東京五輪。日本はグループリーグでアルゼンチンを破って決勝トーナメントに進出した。主力メンバーの川淵三郎は27歳、杉山隆一は23歳、釜本邦茂は20歳。準々決勝でチェコスロバキアに0-4と大敗したが、日本サッカー界の発展につながるターニングポイントとなった。ちなみに順位決定戦で日本代表と対戦したユーゴスラビア代表には、後に日本代表監督を務めるイビチャ・オシムがいた。

4年後の1968年メキシコ五輪。初戦でナイジェリアを破った日本代表はブラジル、スペインと引き分け、2大会連続で決勝トーナメントに進出した。準々決勝ではフランスを破り、ベスト4入り。準決勝でハンガリーに敗れたが、3位決定戦で開催国のメキシコを粉砕し、銅メダルに輝いた。釜本は7ゴールで得点王。Jリーグ創設以前では最も日本サッカーが盛り上がった時代だろう。

オフト監督はW杯初出場目前で「ドーハの悲劇」

しかし、メキシコ五輪後は再び低迷期に入る。長沼の後を受けて岡野俊一郎が代表監督に就任するが、1971年のミュンヘン五輪予選で敗退。再び長沼健が指揮を執ったワールドカップ西ドイツ大会予選にも敗れた。

二宮寛、下村幸男、渡辺正を経て、後にJリーグ初代チェアマンを務める川淵三郎が1980年に代表監督に就任。金田喜稔、木村和司、風間八宏らを擁してワールドカップスペイン大会予選に臨んだが敗退した。

木村和司が今も語り継がれる伝説のフリーキックを決めたのは、1985年のワールドカップメキシコ大会アジア最終予選の韓国戦。森孝慈監督率いる日本代表はしかし、宿敵・韓国に敗れ、またも夢は潰えた。

石井義信監督で臨んだソウル五輪予選、横山謙三監督で臨んだワールドカップイタリア大会予選も相次いで敗退。Jリーグ創設が決まり、悲願のワールドカップ出場に向けて、外国人で初めて監督に就任したのがハンス・オフトだった。

1993年のワールドカップアメリカ大会アジア最終予選。三浦知良、ラモス瑠偉、柱谷哲二、中山雅史、現監督の森保一らを擁した日本代表は第4戦で宿敵・韓国を破り、最終戦のイラクに勝てばワールドカップ初出場というところまで来ていた。しかし、ロスタイムで同点ゴールを許すまさかの結末…。「ドーハの悲劇」と語り継がれる一戦で、深夜の衛星中継を見守っていた日本列島は悲鳴に包まれた。

岡田武史監督で悲願のW杯初出場

オフトの後を受けたパウロ・ロベルト・ファルカンが解任され、後任に就いたのが横浜フリューゲルスの指揮を執っていた加茂周。1997年のワールドカップフランス大会予選、ホームの韓国戦で先制しながら痛恨の逆転負けを喫し、にわかに雲行きが怪しくなる。続くカザフスタン戦で引き分けると更迭され、コーチだった岡田武史が急遽、監督に就任した。

土俵際に追い込まれた日本代表だったが、代表から外れていた中山雅史らを再招集して勢いを取り戻し、「ジョホールバルの歓喜」へと至った。しかし、初出場した1998年のワールドカップ本大会では3戦全敗でグループリーグ敗退。まだまだ世界の壁は厚かった。

2002年の日韓共催ワールドカップで指揮を執ったのがフランス人のフィリップ・トルシエだ。「フラットスリー」を掲げてグループリーグを突破。決勝トーナメント1回戦でトルコに敗れた。

その後を受け継いだのがジーコだった。Jリーグ創設期に鹿島で活躍したジーコは、自身が現役時代にブラジル代表で「黄金のカルテット」を形成したのと同様、日本代表でも中田英寿、中村俊輔、小野伸二、稲本潤一の4人を登用して豪華な中盤を形成。コンフェデレーションズカップでブラジルと引き分けるなど期待は高まったが、2006年のワールドカップドイツ大会では1分け2敗でグループリーグ敗退となった。

ジーコの後任に就いたのは、ジェフ千葉で指揮を執っていたイビチャ・オシムだった。独自のサッカー理論や含蓄のある言葉の数々に評価は高かったが、脳梗塞を患って退任。急遽、岡田武史が2度目の代表監督に就任した。2010年のワールドカップ南アフリカ大会では2勝1敗でグループリーグを突破。決勝トーナメント1回戦ではパラグアイにPK負けし、ベスト8入りはならなかった。

西野朗、森保一監督で2大会連続ベスト16

2014年のワールドカップブラジル大会を率いたのはイタリア人監督のアルベルト・ザッケローニ。本大会はギリシャと引き分け、コートジボワールとコロンビアに敗れてグループリーグ敗退となった。

その後任監督に就任したがハビエル・アギーレだ。メキシコ代表監督としても実績を残していたが、スペイン・サラゴサ監督時代の八百長疑惑が発覚し、2015年のアジアカップ敗退後に解任。引き継いだヴァヒド・ハリルホジッチがワールドカップロシア大会予選を突破し、6大会連続出場を決めた。

しかし、最終予選後は3勝2分け4敗と結果を残せなかったこともあり、本大会2カ月前の2018年4月に解任。アトランタ五輪代表監督として「マイアミの奇跡」と呼ばれるブラジル戦の金星を挙げ、ガンバ大阪などでも実績を残した西野朗が急遽、監督に就任した。

ロシア大会グループリーグは1勝1分け1敗で突破。決勝トーナメント1回戦でベルギーに敗れたが、ベスト16入りを果たした。

2022年のカタール大会。先述の通り、森保一監督に率いられた日本はドイツ、スペインを破ってベスト16入り。開幕前まで森保監督の采配を疑問視する声もあったが、今ではそんな声は全く聞かれない。後半で逆転に導いたカタールでの戦いぶりは日本中を感動させた。続投も正式に決まり、今後がさらに期待される。

ただ、ベスト8の目標は持ち越された。日本サッカー協会は2050年までにワールドカップ優勝という目標を掲げている。ここまで長い時間を要したが、これから先、まだまだ長い道のりが待っている。

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