サッカーで背番号11をつける意味とは?
サッカーの背番号11はエースストライカーが背負うことの多い番号だ。チームの司令塔を10番だとしたら、9番と11番はフォワード、点取り屋ということになる。
近年では背番号をポジションと関連させずに付けることもあるので一概には言えないが、日本では三浦知良が背負っていたことからもエースストライカーの印象が強い。
フォワード以外にミッドフィルダーの選手が11番を背負うこともある。
サッカーの背番号11はエースストライカーが背負うことの多い番号だ。チームの司令塔を10番だとしたら、9番と11番はフォワード、点取り屋ということになる。
近年では背番号をポジションと関連させずに付けることもあるので一概には言えないが、日本では三浦知良が背負っていたことからもエースストライカーの印象が強い。
フォワード以外にミッドフィルダーの選手が11番を背負うこともある。
言わずと知れたサッカー界のパイオニア。1967年に静岡で生まれ、静岡学園高を中退して単身ブラジルに渡った。サントスFCやキンゼ・デ・ジャウーなどでプロとして活躍し、1990年に読売クラブ入り。Jリーグ創設からヴェルディ川崎にとどまらず、新たなプロリーグを代表するスターとして大人気を誇った。
その後、イタリア・セリエAのジェノアやクロアチア・ザグレブ、シドニーFCなど海外クラブでもプレー。日本代表では89試合で歴代2位の55得点を挙げているが、ワールドカップには出場していない。クラブでも代表でも背番号11を背負う。2022年からJFLの鈴鹿ポイントゲッターズに移籍した。
1979年生まれの小野伸二は、その類まれなボールコントロールとゲームメーカーとしての才能を発揮し、浦和レッズや、清水エスパルス、オランダのフェイエノールトなど国内外の強豪クラブチームで活躍してきた選手だ。ポジションはミッドフィルダーを務めることが多く、抜群のテクニックと視野の広さを活かしたパスでチャンスメーカーとしても高く評価された。現在は北海道コンサドーレ札幌に所属している。
日本代表としては、1994年からアジアユース選手権に出場するなど、キャリアの早い段階から国際試合経験がある。1998年のワールドカップでは背番号11を背負って活躍した。
鈴木隆行は1995年に鹿島アントラーズでプロのキャリアをスタートさせてから、国内、海外問わず、様々なクラブチームをわたり歩いた。2015年にジェフ市原に移籍し、同年に引退。ポジションはフォワードで、2000年には、鹿島アントラーズのJリーグカップ優勝に貢献するなどしている。
日本代表としては、2001年から2005年まで国際Aマッチに55試合出場し、通算11得点を挙げた。髪を金色や銀色に染めていたことから「金狼」や「銀狼」とも呼ばれた。
巻誠一郎は2003年から2010年までジェフユナイテッド市原・千葉で活躍した選手だ。その際、後に日本代表の監督にもなった、当時市原監督のイビチャ・オシム氏に指導を受けた。その後、ロシアのアムカル・ペルミや東京ヴェルディ、ロアッソ熊本などでプレーし、2018年に引退した。
日本代表としては、2005年から2009年に国際Aマッチ38試合8得点を記録している。2006年に行われたドイツワールドカップで背番号11をつけて臨んだ。
柿谷曜一朗は幼少期からセレッソ大阪の下部組織でプレーし、2006年からスタートしたプロとしてのキャリアもセレッソ大阪からだった。2009年から2011年まで徳島ヴォルティスにレンタル移籍し、2014年から2015年はスイスのFCバーゼルでプレー。移籍のたびに数年後にセレッソ大阪に復帰したが、2021年から名古屋グランパスに完全移籍した。
日本代表としては国際Aマッチでは2013年と2014年に18試合に出場したのみ(5得点)。2014年のワールドカップでは背番号11をつけてプレーした。
久保建英は小学生時代にバルセロナの下部組織カンテラ入りし、早くから将来を嘱望されてきた。FC東京時代の2017年に16歳5カ月22日でJ1出場を果たし、森本貴幸、宮吉拓実に続いて歴代3位の年少記録となった。2019年からレアル・マドリードに移籍し、現在はマジョルカでプレーしている。
日本代表では2019年6月9日のエルサルバドル戦、市川大祐に次ぐ史上2番目の若さでA代表デビュー。2021年には東京五輪代表として出場したもののメダルを逃して号泣したのは記憶に新しい。国際Aマッチには14試合に出場している。
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