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サッカーロシア代表を見て思い出した「ピクシーの悲劇」ウクライナ侵攻で出場停止

2022 3/6 06:00糸井貢
現セルビア代表監督のドラガン・ストイコビッチ氏,Ⓒゲッティイメージズ
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Ⓒゲッティイメージズ

カタールW杯の欧州予選プレーオフ目前で

ウクライナを舞台にした戦火は収まる気配がない。ロシアが軍事侵攻し、世界中を震撼させたのが2月24日。その後、一歩も引く姿勢を見せない両国に対する各国の思惑も交錯し、事態は泥沼化しようとしている。

これほど大きな政治的動きを受けると、サッカー界も「無傷」ではいられない。国際サッカー連盟(FIFA)と欧州サッカー連盟(UEFA)は同28日、ロシア代表と同国クラブチームの主催大会出場を全面的に禁止することを発表。22年カタールW杯の欧州予選プレーオフを控えていたロシア代表にとって、それは死刑宣告にも等しい決定だった。

当初は中立地での開催を模索していたものの、プレーオフで同組のポーランド、チェコ、スウェーデンが次々と対戦を拒否する声明を発表。今回の軍事行動に対するアレルギーは相当強く、FIFAとUEFAも、より厳しい処分へ舵を切らざるを得なくなった。

ユーゴ内戦に翻弄されたストイコビッチ

国の一部トップが起こしたアクションは、いつの時代も数え切れない被害者を生む。ロシアがW杯出場の道を断たれたニュースを聞き、脳裏に浮かんだのがドラガン・ストイコビッチ氏(現セルビア代表監督)の顔だった。

妖精(ピクシー)の愛称を持つ希代のファンタジスタ。ユーゴスラビア代表として2度のW杯を経験し、1995年から現役を引退する2001年まで名古屋でプレーし、日本でも絶大の人気を誇った。

監督としても、名古屋を率いた2010年にリーグ制覇。世界トップレベルの実力をそのままJリーグにフィードバックさせた数少ないレジェンドといっていい。

彼もまた、輝かしいキャリアを政治に翻弄されていた。母国ユーゴスラビアは、かつて「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字を持つ、1つの共同体」と呼ばれた複合国家。各地で独立運動の萌芽が見えた1991年6月、スロベニアとクロアチアが独立を宣言したのを機に、内戦状態に入った。

先の見えない紛争の中で、セルビア・モンテネグロで構成する新ユーゴスラビア連邦に対し、スポーツを含む国際交流禁止の制裁が下ったのが1992年5月。ストイコビッチら代表選手は「EURO92」(欧州選手権)を戦うため、到着したスウェーデン・ストックホルムの空港で、その悲報を耳にした。

当時のストイコビッチは27歳。プレーヤーとして最も脂の乗った時期で、その2年前のイタリアW杯でベスト8まで進み、優勝候補の一角に挙げられていた。代替出場したデンマークは準優勝。決戦の地を踏めず、Uターンした苦い記憶は一生消えるはずがない。

30時間かけて日本と代表戦を往復したピクシーの胸中

制裁は長引き、1994年のW杯アメリカ大会は、予選出場さえかなわなかった。Jリーグに新天地を求めたのは、心身ともに疲れ果てた、そんな時期だった。96年から3年間、名古屋グランパスを取材する中で、クラブ、サポーターのために全力プレーを見せるのと同じくらい、代表活動にも熱心な姿が印象に残っている。

制裁が解除され、フランスW杯予選を戦うユーゴスラビアのために、どんな格下との対戦でも、往復30時間以上の労力を費やして、ピクシーは欧州へ戻った。FIFAランクで最下位に近い小国とのカードで離日する直前、練習後の彼に聞いたことがある。

「この相手なら、あなたがいなくても、欧州にいるメンバーだけで勝てるのではないですか」。答えはシンプルで、力強かった。

「代表に選ばれるのは常に光栄なこと。自分の国のために戦うのだから、相手どうこうは関係ない」。欧州一、そして世界一の栄冠を手にする機会を戦わずして失ったことで、ストイコビッチの中に新たな情熱、モチベーションが生まれたのかもしれない。代表主将に導かれ、ユーゴスラビアはW杯切符を勝ち取った。

夢を絶たれたロシアの若き才能

歴史に「if」は禁物と分かっていても、選手としてピークの背番号「10」に率いられた東欧のタレント集団が、2つの舞台で見せたはずのパフォーマンスを夢想せずにはいられない。

そして今、自国で開催された前回のW杯でベスト8に進み、アレクサンドル・ゴロビン(モナコ)、アレクセイ・ミランチュク(アタランタ)ら若き才能を抱えるロシアが同じ悲劇に直面している。

実は、政治的発言を好まなかったストイコビッチも、一度だけピッチで思いを爆発させた瞬間がある。NATO(北大西洋条約機構)が母国への空爆を始めた直後の1999年3月27日、神戸戦でアシストを決めた後、ユニホームを脱ぎ、Tシャツに手書きした「NATO STOP STRIKES」のメッセージを見せた。

全く罪がないのに、奪われていく夢。サッカー選手だけでなく、ロシアの国を背負うアスリートに、「抵抗」の手段がないことが悲しい。

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