1993年「ドーハの悲劇」
日本サッカー史に刻まれる「ドーハの悲劇」。ワールドカップ出場が当たり前のように見られている現状からは想像しがたいだろうが、当時の日本サッカー界にとって、ワールドカップ出場は「悲願」だった。
1993年にJリーグがスタートし、それまでとは比べものにならないほどサッカーが注目され、多くのスター選手が出現。ワールドカップ出場は、夢から現実的な目標に変わっていた。
アメリカワールドカップのアジア地区最終予選。「悲願」に王手をかけた日本代表はイラクとの最終戦に勝てば出場が決定したが、試合終了間際に同点ゴールを許し、つかみかけた栄光は一瞬で悪夢に変わった。
現在の日本サッカー界の繁栄が、あの時の悔しさの延長線上にあることを決して忘れてはならない。今ではドーハ組の二世選手がサッカー界で活躍している。サムライブルーの遺伝子を受け継いだ男たちを紹介しよう。
現日本代表監督の息子、森保翔平・圭悟
森保一はドーハの悲劇当時の日本代表監督だったハンス・オフトの申し子と呼ばれていた。守備的ミッドフィルダー、ディフェンシブハーフなどと呼ばれていたポジションに「ボランチ」の名称が定着したのもあの頃だった。
その森保一の長男が森保翔平だ。サンフレッチェ広島ユースから法政大を経て、2014年、J2に昇格したカタマーレ讃岐に加入。その後、ニュージーランドなどでプレーして引退した。
次男の森保圭悟もサンフレッチェ広島ユースから流通経済大に進み、オーストラリアやフィリピン、ドイツなどでプレー。現在は兄とともにサッカー系YouTuberとして活動している。
日本代表史に残る左サイドバックの次男・都並優太
日本代表で長らく左サイドバックとして活躍した都並敏史はドーハの悲劇で悔しい思いをした一人だ。アメリカワールドカップのアジア最終予選を前に左足首を亀裂骨折。最終予選のメンバーに入っていたものの、出場は不可能だった。その悔しさは試合に負けたものとはまた違う、忸怩たるものがあっただろう。
その都並の遺伝子を受け継ぐのが都並優太だ。東京ヴェルディユースから関西大へ進み、2014年にAC長野パルセイロへ加入。2019年に奈良クラブへ移籍した。チームは現在JFLで3位につけており、J3昇格を目指して戦っている。
「アジアの大砲」二世・高木利弥
ハンス・オフト監督時代の日本代表で「アジアの大砲」の異名を取った高木琢也は、ポストプレーを得意とし、かつ豪快なシュートを武器に活躍した。1992年アジアカップ決勝で、日本の初優勝を決める胸トラップからのボレーは伝説となっている。ドーハの悲劇では三浦知良と中山雅史、長谷川健太が先発出場したため、高木琢也はベンチで敗戦を経験した。
その高木の長男・高木利弥は、帝京高、神奈川大を経て2015年にモンテディオ山形に加入。その後、ジェフユナイテッド千葉、柏レイソル、松本山雅FC、愛媛FCとわたり歩き、現在も愛媛でプレーしている。
日本代表GKコーチの息子ハーフナー・マイク
元日本代表FWハーフナー・マイクの父は、Jリーグ初期に活躍したディド・ハーフナーだ。オランダ出身のディド・ハーフナーはサンフレッチェ広島の前身、マツダの選手兼任コーチとして来日。1993年当時は日本代表のGKコーチとしてドーハの悲劇を経験した。
息子のハーフナー・マイクは広島で生まれ、2006年に横浜F・マリノスでJリーグデビュー。長身FWとして活躍し、オランダ、スペイン、フィンランドなど海外でもプレーした。日本代表では国際Aマッチ18試合に出場して4得点。現在は岐阜県関市を本拠地とするFC.Bomboneraに所属している。
ドーハの悲劇から29年。苦い思い出として記憶に刻まれている地で、2022年のワールドカップが開催される。7大会連続出場する日本代表はどんな戦いを見せるだろうか。29年前の悔しさを払拭し、最高の夢を見せてくれる活躍が期待される。
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