スター街道を駆け上がった横浜フリューゲルス時代
最近はバラエティ番組などでタレントとしても活躍している前園真聖。現役時代を知る者からすれば、かつてのとんがった姿とは真逆の柔らかい物腰に月日の移ろいを感じずにはいられないが、逆に若い世代からすれば、日本サッカーが世界を驚かせた歴史的出来事の当事者だったことを知らないとしても不思議ではない。
そう、前園は間違いなく、Jリーグ創設から火が点いた一大ムーブメントの中心にいる一人だった。改めてその功績を振り返りたい。
1973年10月29日、鹿児島で生まれた前園は兄の影響でサッカーを始め、鹿児島実業高2年時の選手権で全国準優勝。卒業した1992年に横浜フリューゲルスに加入し、翌1993年、19歳でJリーグ開幕を迎えた。
同年は24試合出場で2得点。翌94年は38試合で8得点と実績を挙げ、U-21日本代表に選ばれる。アグレッシブなプレースタイルとスピード満点のドリブル、端正なマスクも手伝って瞬く間にスター街道を駆け上がった。
1995年から始まったアトランタ五輪予選には主将として出場し、翌1996年3月のアジア最終予選サウジアラビア戦で2ゴールを挙げ、五輪出場が決定。1993年に「ドーハの悲劇」を経験し、日本はまだワールドカップに出場したことがない時代だ。釜本邦茂らの活躍で銅メダルに輝いた1968年メキシコ大会以来28年ぶりの五輪出場に日本中が沸いた。
本気のブラジルに大金星
迎えた1996年7月のアトランタ五輪。ジョージア州アトランタではなく、太陽が照り付けるフロリダ州マイアミのマイアミ・オレンジボウルで日本が対峙したのはブラジルだった。
ワールドカップで4度も優勝した「王国」が、当時は五輪での優勝は未経験。ロベルト・カルロスら強力メンバーに加え、オーバーエイジ枠でベベット、リバウド、アウダイールが加わったドリームチームで初の金メダルを狙っていた。
日本の圧倒的不利――。専門家でなくても分かるほど、当時の前評判は偏っていた。しかし、西野朗監督は守備的戦術に活路を見出していた。開始のホイッスルが鳴ると、ブラジルは自慢の攻撃力を発揮。日本は防戦一方だったが、虎視眈々とワンチャンスを狙っていた。
後半27分、路木龍次がブラジルの最終ラインとGKの間のスペースにロングパスを放り込む。城彰二が走り込み、慌てたブラジルDFとGKが衝突。ゴールに向かって転がるボールを伊東輝悦が押し込み、日本は虎の子の1点を奪った。
その後も目の色を変えて攻め込むブラジルの総攻撃をしのぎ切り、サッカー史に残る大番狂わせとなった。シュートはブラジルの28本に対し、日本はわずか4本。「マイアミの奇跡」として語り継がれるピッチで、前園は主将として戦い抜いた。
輝きを失ったアトランタ五輪後
日本は続くナイジェリア戦で敗れ、最終ハンガリー戦には勝ったものの得失点差でグループリーグ敗退。メキシコ五輪以来のメダルには届かなかった。
それでも前園は欧州からも注目を集める存在となり、同年はJリーグ26試合出場で8得点をマーク。オフにはスペイン移籍を希望したもののフロントと折り合わず、ヴェルディ川崎への移籍が決まった。
しかし、移籍希望が叶わなかった前園は次第に輝きを失っていく。フル代表でも活躍が期待されたが、1997年3月を最後に召集されることはなかった。マイアミでともにプレーした城彰二が、エースとして1998年のフランスワールドカップに出場したのは対照的だった。
1998年10月にはブラジルの名門サントスFCに移籍。その後、Jリーグに復帰し、湘南ベルマーレや東京ヴェルディ、さらに韓国・Kリーグでもプレーし、2005年に引退した。
マイアミまでの輝きがあまりにも鮮烈だった分、それ以降の失速は残念に映る。とはいえ、前園が日本サッカー史の1ページを彩ったことは紛れもない事実だ。栄光と挫折を知り、すっかり丸くなった男が、いつか指導者として指揮を執る姿も見てみたい。
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