金1号「小さな巨人」重量挙げの三宅義信
アジアで初めて開催された1964年東京五輪で日本は世界3位の金メダル16個、銀メダル5個、銅メダル8個の計29個のメダルを獲得し、日本列島を熱狂させた。新型コロナウイルス禍で揺れる半世紀たった今も数々の名場面は色あせない。
93カ国・地域から5152選手が参加し、日本の金メダル第1号となったのは「小さな巨人」と呼ばれた重量挙げの三宅義信だった。
東京五輪3日目の10月12日、会場の渋谷公会堂は満員で期待が膨らむ中、男子フェザー級で9回の試技を全て成功させ、トータル397.5キロの世界新記録をマーク。身長155センチと小柄な体格ながら、1日合計100トンを挙げるという独自練習で鍛え上げ、2位の米国選手を15キロも上回った。「人生最高の試合」と振り返る有言実行の「金」でもあった。
宮城県村田町出身。1956年メルボルン五輪を見て高校時代に重量挙げという競技を知り、アルバイトで家計を支えながら創意工夫を重ねて成長。1960年ローマ五輪はバンタム級で銀メダルだった悔しさをバネに、4年間を意味する「1460日計画」を用意周到に立て、ぶれることなく実践して心身を鍛えた。
1968年メキシコ五輪でも2連覇を達成し、弟の義行も銅メダル。同一種目で兄弟同時に表彰台に上がるのは近代五輪史上初の快挙だった。
「鬼の大松」率いる「東洋の魔女」はテレビ視聴率66.8%
1964年東京五輪で正式競技となったバレーボールは「東洋の魔女」と呼ばれた日本女子が世界を驚かせた。東京五輪閉会式前夜の10月23日、日本がソ連を3―0で破り、金メダルを獲得。テレビ視聴率は66.8%をマークし、国民の圧倒的な関心を示した。
「鬼の大松」と呼ばれた大松博文監督率いる「東洋の魔女」はお家芸の回転レシーブでソ連の強打を拾って逆襲につなげてリード。第3セットは14―13に迫られたが、最後はソ連にミスが出て初の栄冠を射止めた。
5戦全勝で頂点に立ったチームをエースアタッカーとして引っ張ったのが井戸川絹子(旧姓・谷田)。日本代表の主将でセッターを務めたのが中村昌枝(旧姓河西)。体を投げ出してレシーブしてもすぐに立ち上がる「回転レシーブ」は代名詞になった。
ベンチ入り12人のうち、レギュラー全員を含む10人が大阪府南部の貝塚市で活動していた日紡貝塚所属。圧倒的な練習量が初の日本開催の五輪という大舞台で勝負強さを支えた。選手に猛練習を課した大松監督の「おれについてこい」は流行語にもなった。
「鬼に金棒、小野に鉄棒」体操は金5個
1960年ローマ五輪で四つの金メダルをつかんだ体操男子は、自国開催の1964年東京五輪でも金5個を含む9個のメダルを獲得し「体操ニッポン」のメダルラッシュに日本列島が沸いた。
日本選手団の主将を務めた小野喬は鉄棒が得意なことから「鬼に金棒、小野に鉄棒」と称され、右肩の痛みを抱えながら演技した男子団体総合で2連覇に貢献。個人総合ではソ連の不敗神話を破り、エース遠藤幸雄が日本勢初の五輪王者に輝いた。
種目別では早田卓次がつり輪、山下治広が跳馬、遠藤が平行棒を制した。山下は前転跳びに屈身を組み込む「ヤマシタ跳び」を編み出し、さらにひねりを加えた「新ヤマシタ跳び」を披露。当時最高だったC難度を超える新技は「ウルトラC」と呼ばれ、流行語にもなった。今も伝統として受け継がれる姿勢の美しさに加え、次々と新しい技を生み出す独創性でも世界を驚かせた。
金5個レスリングは「ライオンとにらめっこ」
日本レスリング男子は体操と並び、五輪史上最多の金メダル5個を量産した。1960年ローマ五輪では金メダルなし。当時馴染みが薄かった競技に光を当てたのが、カリスマ性と行動力を持った日本レスリング協会会長の八田一朗氏だった。独特の強化策は「八田イズム」と呼ばれ、度胸をつける「ライオンとにらめっこ」などは有名だ。
猛練習だけでなく、どんな状況でも対応できるように明るい中で寝る訓練や寒中水泳などユニークな指導法も脚光を浴びた。フリースタイルでフライ級の吉田義勝は難敵のアリ・アリエフ(ソ連)を破って勢いに乗り、最初に金メダル。フェザー級の渡辺長武は人間離れした強さで「アニマル」と評された地力で圧倒し、連勝記録が186に到達した。
「秘密兵器」とされたバンタム級の上武(現姓小幡)洋次郎は左肩を脱臼しながら勝ち、グレコローマンスタイルではフライ級の花原勉、バンタム級の市口政光が頂点に立った。
柔道は「昭和の三四郎」岡野功らが頂点も無差別級で屈辱
五輪初登場の柔道は男子4階級が実施され、お家芸の真骨頂を示したが、最後の無差別級で屈辱的な結果が待ち受けた。
軽量級の中谷雄英は新設された日本武道館で柔道金メダル第1号。中量級は「昭和の三四郎」の異名を取った岡野功が頂点に立ち、重量級では「柔よく剛を制す」の体現者とも評される猪熊功が続いた。柔道漫画「YAWARA!」の主人公・柔の祖父「猪熊滋悟郎」のモデルとしても知られる。
しかしお家芸の威信をかけた最後の無差別級で、神永昭夫が身長2メートル近い大男のアントン・ヘーシンク(オランダ)にけさ固めで力尽きた。柔道が「JUDO」として国際的なスポーツへと進化した象徴的なシーンとしても記憶された。
天性のサウスポー、ボクシング桜井孝雄は「打たせずに打つ」
古代五輪では紀元前7世紀から実施され、近代五輪では1904年の第3回セントルイス大会で初採用されたボクシングで東京五輪の頂点に立ったのはバンタム級の桜井孝雄だった。天性のサウスポーで「打たせずに打つ」という技術が秀でた華麗なスタイル。ボクシングの勝利への鉄則が凝縮された強さで日本選手初の金メダルを獲得した。
千葉・佐原一高(現佐原高)でボクシングを始め、全国高校総体で優勝。左構えで右リードパンチから左ストレートが持ち味。打ち終わりには滑らかなバックステップでカウンターを許さなかった。準決勝で優勝候補のウルグアイ選手を破り、決勝では韓国選手から4度ダウンを奪った。
厳しい減量から「水も飲んでないから、涙も出ない」との名言を残し、翌年からプロに転向し22連勝。戦法を「安全運転」と揶揄されても信条を変えなかった。
1968年7月の世界初挑戦で小差の判定負けを喫したが、1969年には東洋王座を獲得し、2度防衛した後に引退。プロ戦績は32戦30勝(4KO)2敗。引退後は東京・築地にジムを立ち上げて技術を伝え、2012年に70歳で亡くなった。
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