50年の時を超えて、三宅家が紡ぐ歴史
今から3年後。2度目となる東京五輪。宏実が戦うであろう重量挙げ女子48キロ級は、大会初日にある。柔道の男女最軽量のクラスも初日にあり、「日本人金メダル1号」は関心の的になるであろう。
その1号になるかもしれない宏実はロンドン五輪でメダルが取れていなかったら、そのまま引退していた可能性もあった。リオ五輪の前も悩んでいた。度重なるケガ。結婚の願望もあった。2013年に2020年の東京五輪招致が決まった後も、父義行はこう言っていた。
「東京五輪を狙えなんて言えないよ」
父親として早く嫁にいってほしい、ケガで苦しむのを見たくない、という思いがその言葉の裏にはある。
でも、満身創痍でのぞんだリオ五輪で、宏実は2大会連続メダルの快挙を成し遂げた。試技を成功した後にバーベルをなでた姿は、記憶に残っているひとも多いだろう。
そして、今は東京五輪へ向けて、宏実はこう思っている。
「別の色のメダルを目指して頑張って行きたい」
いつも、五輪が終わる度に去就を決めかねていた宏実からすれば、驚くほどきっぱりと結論を出した。それは、自らの血筋、運命を受け入れるかのようである。
そんな娘を父義行は指導者の立場から支えている。娘同様、体はぼろぼろなのに。
三宅家のストーリーは50年の時を超えて紡がれていく。そして、二つの東京五輪で日本人金メダル1号という栄誉を、三宅家がつかむ可能性は十分にある。
重量挙げの伝説、三宅家
言わずもがなだが、重量挙げの世界において、「三宅」の名は偉大であり、絶大である。
三宅家の偉業のスタートは、1960年、今から57年前にあったローマ五輪だった。
宮城県出身で法政大学の学生だった三宅義信は、ローマ五輪銀メダルを獲得する。4年後の東京五輪は日本人金メダル1号の栄誉に輝き、日本のメダルラッシュに弾みをつける存在となった。そして、1968年のメキシコ五輪では2大会連続の金メダルを獲得。
その時に同じ表彰台にいたのが、銅メダルを獲得した弟の義行だった。兄弟が同じ種目で2人ともメダルを獲得するという稀有な偉業を成し遂げた。そして、「三宅」の名は、重量挙げの世界で伝説となった。
ただし、このままでは「三宅兄弟」のストーリーであり、「三宅家」のストーリーにはなり得なかった。
名前は三冠王から
1985年。プロ野球では阪神が球団史上初の日本一となり、阪神のランディー・バース、ロッテの落合博満が三冠王に輝いた年に、三宅家のストーリーをつなぐ女の子が産まれた。名は、バースと落合の三冠王にちなんで、「うかんむり」が三つになるように「宏実」と名付けられた(名字の三宅の宅にもうかんむりがある)。
3人きょうだいの末っ子。上2人はともに男の子で、長兄とは12歳、次兄とは10歳違う。三宅夫婦には待ちに待った女の子誕生に、義信は病院で万歳三唱して喜んだという。
宏実は三宅家の娘とした誕生したが、最初は重量挙げとは無縁だった。むしろ、家族が重量挙げから引き離そうとさえしていた。
宏実は音大出身の母育代に、4歳の時からピアノを教えられた。習字も水泳も習っていた。一方で2人の兄は三宅家の血に逆らわず、とも重量挙げの道に進み、次兄は全日本王者にもなった。
宏実も兄の大会についていくと、周囲が「三宅の娘だ」とバーベルを持たせようとした。でも、家族全員で止めたのだという。
「この子は女の子だから」
自宅には床が頑丈な「演奏部屋」があり、ピアノが置いてあった。母育代も娘は音楽の道に進むと思っていた。
ところが、中学3年の宏実が出した答えは、全く違っていた。(続く)
二つの東京五輪 日本人金メダル1号の重圧を背負う三宅家<2>