九州のハヤブサと呼ばれた世界的にも有名な中野浩一選手
高校卒業後、競輪選手だった父の勧めで日本競輪学校の代35期生に合格し、1975年に卒業。久留米競輪場でのデビュー戦から18戦無敗の記録をつくった。また、デビューから1年ほどで最上級クラスになり「九州のハヤブサ」というニックネームがつく。
1980年には、日本のプロスポーツ選手として、初の年間賞金獲得額1億円を突破した。1981年には、日本選手権競輪を制し、史上2人目の特別競輪3連覇を達成。1983年には史上最多6回目の賞金王の座に就き、1985年にはKEIRINグランプリの初代優勝者となった。1977年の世界選手権では初の日本人優勝者となり、1986年まで10連覇を達成。
1988年には通算賞金獲得額10億円を突破した。2006年春には、競輪選手として初の紫綬褒章を受章している。
父とのサイクリングから競輪選手になった 神山雄一郎選手
栃木県の自転車屋に生まれ、父と小さい頃からサイクリングで遠出をしていた。高校で自転車部に入部して、インターハイと国民体育大会の1000m部門で優勝をした。卒業後、観戦したKEIRINグランプリに魅了され、競輪選手を目指し、日本競輪学校に入学、首席で卒業をした。
1988年に、花月園競技場で、デビュー初優勝をした。デビューから7ヶ月でS級に昇格をした。1989年には競輪祭新人王戦を優勝し、日本プロスポーツ大賞新人賞を受賞した。1999年の日本選手権競輪を制し、GI6レース制となってからは史上初となる特別競輪全冠制覇を達成。
2007年から、4年間連続でS級S班の選手として競技をし続けた。2012年FI開催で優勝し、通算獲得賞金額が競輪史上初の25億円を突破、2015年には最高齢優勝記録を更新した。現在、GI16勝は競輪界史上最多記録だ。
北海道のウルトラマンは世界でも活躍した競輪選手 俵信之選手
高校在学中から、自転車競技ジュニア世界選手権にスプリント種目で出場。1984年に競輪選手としてデビューし、1986年には世界選手権自転車競技大会のスプリント種目に初出場。中野浩一・松井英幸に次ぐ3位に入賞している。1987年の同大会では優勝し、中野が前年に打ち立てたV10を引き継ぐ形で日本人選手としてのV11を成し遂げた。
競輪選手としては、1986年に競輪祭新人王戦で優勝、1990年の日本選手権競輪で優勝し、特別競輪も制覇。1991年には弥彦競輪場でのふるさとダービーでも優勝をしている。国際大会で優勝してから特別競輪を優勝したのは、中野浩一2人だけという偉業だった。
朝まで走っても差しきれない競輪選手 滝澤正光選手
「自転車に乗れなくても競輪選手になれる」という新聞広告を見て、日本競輪学校に入学。1979年に大津びわこ競輪場で初勝利を挙げるが、しばらく成績がふるわなかった。当時は中野浩一選手の全盛期で、東京と千葉で「フラワーライン」として共闘団結し、中野ら九州勢を倒すことを目指す戦略をとっていた。
1984年の日本選手権競輪ではフラワーラインの連携がハマり、デビュー5年目で中野を倒し、初タイトルを手に入れた。1987年には13場所連続優勝に加え特別競輪の3連覇。KEIRINグランプリも獲得し、獲得賞金額1億1400万円となる。これは当時全プロスポーツ界最高の金額だった。1990年、史上2人目となる特別競輪全冠制覇を成し遂げ、1992年には高松宮杯競輪で5回目の優勝。
2008年に45歳で現役を引退し、現在は競輪選手出身者初の日本競輪学校第23代校長に就任している。
競輪選手になるために努力し続けた不屈の精神 稲垣裕之選手
高校在学中から競輪選手を目指し、高校3年生で日本競輪学校を受験するが不合格。高校卒業後は、海上自衛官として、館山航空基地のヘリコプター整備員をしながら競輪選手になるトレーニングをし、3回目の受験となった2000年に合格した。2001年の富山競輪場でデビューし、初勝利。GI初出場は2003年の寬仁親王牌(ともひとしんのうはい)で、2005年には高知記念優勝。ふるさとダービーで初のGII制覇を果たした。
また、競輪だけでなく、オリンピック出場の夢も抱き、2005年にドーハで開催されたアジア競技大会では銅メダルを獲得。しかし2007年の全日本自転車競技選手権大会は3位に終ったためナショナルチーム入りできず、北京五輪への道は絶たれた。2015年はJKA「平成27年 表彰選手」の特別敢闘選手賞を初受賞した。2016年に、12度目の挑戦で特別競輪での初優勝を手にした。
まとめ
誰もが耳にしたことのある有名な競輪選手の名前もあったと思う。選手たちの功績は、それぞれの競輪に対する思いや努力よって作られていることを、知っていただきたい。