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「孤高のボクサー」鬼塚勝也の功績をチェックしよう!

2017 1/30 21:11
ボクシンググローブ@Shutterstock.com
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Photo by Blue Planet Studio/Shutterstock.com

日本ボクシング界で1980年代後半から90年代にかけて活躍した鬼塚勝也はキラリと光る存在感を放った。 ぶっきらぼうでストイックな姿勢から「孤高のボクサー」とも呼ばれた鬼塚勝也の功績に迫る。

【鬼塚勝也の功績1】福岡と東京を行き来したアマチュア生活

福岡県北九州市で生まれ育った鬼塚勝也。もともと喘息持ちで体が強くなかった鬼塚少年がボクシングと出会ったのは中学生の頃。「強さへの憧れ」を追求すべく地元のボクシングジムに通い出した。

高校は豊国学園に進み、ボクシング部に入部。高校2年の夏のインターハイ、ライトフライ級で日本一に輝く。さらなる高みを目指した彼は、春休みに単身で上京。都内のボクシングジムを渡り歩き、経験を積むためにスパーリングを繰り返していく。部活がオフの日には他校の練習に混ぜてもらうほどストイックにボクシングに打ち込み、高校3年のときにプロテストに見事合格した。卒業式を終えると協栄ジムから即プロデビューを果たす。

【鬼塚勝也の功績2】デビュー18戦無敗で世界の舞台へ

1988年のプロデビュー戦から3試合連続で1ラウンドKO勝ちを収めた鬼塚。1989年には新人王に輝き、翌年には世界ランク入りを果たす。1990年10月には当時の日本スーパーフライ級チャンピオン・中島俊一と対戦。挑戦者らしからぬ戦いぶりで10ラウンドTKO勝ちし、日本タイトルを獲得した。

デビューから日本の頂点まで14連勝、うち判定勝ちはわずか1試合という無敗レコード。そこからさらに4つの勝ち星を重ねて、18連勝の勢いをかって世界王座をかけた戦いに挑むことになった。

【鬼塚勝也の功績3】タイ・アメリカで武者修行を重ねてレベルアップ

日本のボクシングファンには、鬼塚勝也は天才肌ではなく「努力型」のボクサーであると認識されている。フィジカルに恵まれたわけではないことを認識している彼は、腕が上がらなくなるまでミット打ちをして、立てなくなるまでスパーリングする。そんな日々を繰り返して鋼鉄の体を手に入れた。

あくなき探究心はプロデビュー後も止まるところを知らず、タイトルを獲得する前から海外に武者修業に出掛け、経験を積んだ。タイに行けば当時最強と呼ばれたタノムサクの試合を見たり、アメリカに行けばIBF王者・カニザレスとスパーリングをしたり、彼の研究熱心な姿勢と行動力は、それぞれの所属ジムがきちんと管理するのが一般的なボクシング界において異彩を放っていた。

【鬼塚勝也の功績4】高い壁を乗り越えて獲得した世界タイトル

1992年、鬼塚はWBA世界スーパーフライ級1位にランクイン。カオサイ・ギャラクシーが王者のまま引退を発表し、タイトルを返上したことで王座決定戦が開催されることになった。対戦相手はかつてタイの武者修行で試合を見たこともある同級2位のタノムサク・シスボーベー。

戦績だけで言えばファンが18戦無敗の鬼塚の勝利を期待するのは当然だが、鬼塚本人はタノムサクの高いスキルを見抜いており、本人の予想通り「厳しい戦い」となった。序盤から鬼塚のパンチはかわされ、タノムサクのパンチを受けてしまう場面が続く。

しかし、7ラウンドにコンビネーションパンチがタノムサクを捉えて反撃開始すると、後半に盛り返してフルラウンドを終えた。僅差の判定で鬼塚が勝利を収め、世界の頂点に立った。

【鬼塚勝也の功績5】批判をやめないマスコミを黙らせたベストバウト

僅差の判定が物議を醸し、批判も多かった中で、鬼塚は反論することなく次戦に向けての準備を始める。王座獲得から5ヶ月後の1992年9月に松村謙一を撃破して初防衛。さらに同年12月に世界ランキング1位のアルマンド・カストロ(メキシコ)と対戦する。

1ラウンドから攻め立てるカストロの攻撃に鬼塚がぐらつく場面もあったが、2ラウンドになると鬼塚が前に出て効果的にパンチをヒット。ここから一気に形勢逆転し、カストロを倒すことはできなかったが判定勝ちを収めた。互いに打ち合ったこの一戦は、鬼塚勝也のベストバウトとも言われている。

まとめ

その後も林在新、李承九(ともに韓国)、再戦となったタノムサクを破り5度の防衛を達成。 現役引退後は、勝利至上主義ではないボクシングジムを開いたり、アーティストとして活動したりと、多岐にわたって活躍している。 彼自身のストイックな戦いぶりはファンの心を動かすものがあり、カリスマとしてその名を世に知らしめた。

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