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三代目JSBのELLYの父カーロス・エリオットとマーク堀越の現役時代、八戸から世界を目指した「ジャパニーズドリーム」

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重量級でアジア無敵だったカーロス・エリオット

「三代目 J SOUL BROTHERS from EXILE TRIBE」のELLYは青森県立三沢高時代、野球部で4番を打ち、3年夏の青森県大会準々決勝で坂本勇人が2年生だった光星学院高に敗れたことが知られている。ELLYがスラッガーとして名を馳せたのは、父親から受け継いだ高い身体能力も大きいだろう。

その父親とは、ハードパンチャーとして世界にも挑んだ元プロボクサーのカーロス・エリオットだ。エリオットはアメリカ出身だが、在日米軍として青森県の三沢基地に勤務しながら八戸帝拳ジムでプロボクシングのライセンスを取得。同じく三沢基地勤務だったマーク堀越(本名マーク・ブルックス)とともに、1980年代の日本ボクシング界を席巻した。

デビュー以来無傷の6連続KOで挑んだ日本ウェルター級タイトルマッチは、王者・串木野純也に6回KO負けを喫したが、2カ月半後に再起。1985年7月には無限川坂に2回KO勝ちして日本ウェルター級王者となった。

その後、防衛を重ね、1987年4月には韓国の柳済炯を9回KOで下し、東洋太平洋スーパーウェルター級王座も獲得。一度はタイトルを失ったが、フランシスコ・リスボアに11回KOで雪辱して王座を奪回した。1989年7月には、後に俳優としても活躍する大和武士に4回KO勝ちで東洋太平洋王座を防衛するなど、アジアでは無敵の強さを誇った。

1991年2月にWBA世界スーパーウェルター級王者ジルベール・デレ(フランス)に挑戦したが、7回KO負けして引退。世界には惜しくも届かなかったが、破格の強打で26勝(22KO)3敗の戦績を残した。

高橋ナオトと死闘演じたマーク堀越

同僚のマーク堀越もボクシングファンには印象深いボクサーだった。1987年に日本スーパーバンタム級王座を獲得すると、軽量級離れした強打で6連続KO防衛。高橋ナオトとの7度目の防衛戦は、日本ボクシング史に残る壮絶なファイトだった。

1989年1月22日、後楽園ホール。ハードパンチで当時世界ランキングに名を連ねていたマークと、日本バンタム級王座を失って2階級制覇を狙う天才カウンターパンチャー高橋の注目の一戦は、ボクシングの聖地に超満員のファンを集めた。

3回終了間際にマークの強打が炸裂し、高橋の顎をはね上げる。しかし、4回に高橋が右ストレートをクリーンヒットし、マークがダウン。この回もう一度倒し、計2度のダウンを奪った。

ダメージから回復したマークは徐々に盛り返し、8回にはついにダウンを奪う。両者死力を振り絞って迎えた9回、高橋がダウンを奪い返すと、最後は右のカウンターを一閃した。ダウンしたマークは辛くも立ち上がったものの足元がおぼつかず、リング上を宇宙遊泳のように歩きテンカウント。高橋が大逆転KOで2階級制覇を達成した。

日本タイトルマッチながらこの年の年間最高試合に選ばれた歴史に残る死闘は、マークの頑張りがあったからこそだ。その後、アメリカに帰国してリングに上がったが、世界王者には届かずグローブを吊るした。

カーロス・エリオットもマーク堀越も、間違いなく日本ボクシング史を彩った名王者だ。今ではラグビー日本代表で外国出身選手が活躍するなど、あらゆる競技で国際化が進んでいるが、当時はまだまだ排他的だった日本でリングに上がり続けた2人には最大限の敬意を表したい。いろいろな意味で日本と世界の距離が遠い時代だった。

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