2022年現役選手の背番号「53」
2022年各球団の背番号「53」は下記の選手が背負っている。
ヤクルト:長谷川宙輝投手
阪神:島田海吏外野手
巨人:高梨雄平投手
広島:小林樹斗投手
中日:石田健人マルク投手
DeNA:池谷蒼大投手
オリックス:宜保翔内野手
ロッテ:江村直也捕手
楽天:髙田萌生投手
ソフトバンク:泉圭輔投手
日本ハム:長谷川威展投手
西武:愛斗外野手
不在:0球団
永久欠番:0球団
投手:8球団
捕手:1球団
内野手:1球団
外野手:2球団
2022年は投手が8球団とやや偏りが見られる背番号53。やはり、日米通算906試合に登板した五十嵐亮太のイメージが強いのかも知れない。タイプ的にもヤクルト・長谷川宙輝や広島・小林樹斗、楽天・髙田萌生、ソフトバンク・泉圭輔ら伸び盛りの若手投手が多くなっている。
その一方で、ロッテ・江村直也や西武・愛斗のように「53」を長く背負う野手もいる。歴史を振り返ってみても、野手で好成績を残した選手も少なくない。
近年随一のスピードスター・赤星憲広
「レッドスター」と呼ばれ、球界屈指のスピードスターだった阪神・赤星憲広。2000年ドラフト4位でJR東日本からプロ入りし、故障で引退する2009年までの9年間を背番号53で過ごした。
1年目から39盗塁をマークし、盗塁王と新人王を受賞。以降、5年連続盗塁王に輝いた。これはセ・リーグ記録にもなっている。
プロ入り1年目の2001年に当時、指揮を執っていた野村克也監督は俊足選手7人を「F1セブン」と命名。その1号車に指名されたのが赤星だった。その他の6人は藤本敦士、沖原佳典、上坂太一郎、平下晃司、松田匡司、高波文一。7人の中では赤星が最も実績を残した。
通算1127試合で381盗塁。試合中のケガが原因で引退したが、もっと長く現役を続けていれば福本豊(元阪急)の持つ1065盗塁にどこまで迫っていただろうか。
「ロケットボーイズ」五十嵐亮太
ヤクルト、ソフトバンクで中継ぎとして活躍した五十嵐亮太。メジャーリーグにも挑戦した日本が誇る剛腕は、ヤクルトとソフトバンクで背番号53を背負った。
敬愛学園高から1997年ドラフト2位でヤクルト入りし、石井弘寿とともに「ロケットボーイズ」としてセットアッパーに定着。2004年には抑えとなり、5勝3敗37セーブの成績で最優秀救援投手のタイトルを獲得した。
メジャーリーグでは3球団に在籍し、83試合に登板。ここでの役割も日本時代と同じく中継ぎだった。
2013年にソフトバンクに入団し、日本球界復帰。セットアッパーとして5年連続で30試合以上に登板するなど結果を残した。2019年に古巣ヤクルトに復帰。2020年に引退するまでNPB通算823試合、日米通算906試合に登板した。かつて日本球界最速タイとなる158キロをマークするなど、スピードを追い求めた野球人生だった。
「不惑の大砲」門田博光
40歳を超えても、なお長距離砲として活躍した門田博光。その背番号は入団から「27」「44」「60」「78」「53」と4度変更している。その中で現役最後の番号となったのが1991年、1992年のダイエー時代に背負った「53」だ。
南海、オリックスで活躍した門田は、1991年からダイエーに移籍。当時43歳だったが、112試合に出場して8本塁打をマーク。44歳となった翌1992年にも65試合に出場し7本塁打を放った。同年限りで現役を引退。通算567本塁打、1678打点はともにNPB歴代3位となっている。
40歳だった1988年に本塁打王に輝き、「不惑の大砲」と呼ばれた門田。王貞治、野村克也に次ぐ数字を残し、球史に名を刻んだスラッガーだった。
ドジャースのレジェンド、ドン・ドライスデイル
メジャーリーグで活躍した背番号53の選手には、ドン・ドライスデイルがいる。1956年にブルックリン・ドジャース(現ロサンゼルス・ドジャース)でメジャーデビュー。2年目に17勝をマークすると、そこから12年連続2桁勝利を達成した。
1962年には25勝9敗、232奪三振、防御率2.83の成績を残し最多勝、最多奪三振のタイトルを獲得。サイ・ヤング賞にも輝いた。
1968年には6試合連続完封勝利をマークするなど、58.2回連続無失点記録を樹立。この記録はドジャースの後輩であるオーレル・ハーシュハイザーに破られるまでメジャーリーグ記録でもあった。
1969年に現役を引退するまでに通算209勝166敗をマーク。1984年には野球殿堂入りも果たし、入団から引退まで背負い続けた「53」はドジャースの永久欠番となった。
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