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巨人では名脇役、ヤクルトでは出世番号 プロ野球における背番号36の選手たち

2024 9/27 06:00SPAIA編集部
ロッテの坂本光士郎、広島の塹江敦哉、ソフトバンクのイヒネ・イツア,ⒸSPAIA
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2024年現役選手の背番号「36」

2024年各球団の背番号「36」は下記の選手が背負っている。

阪神:浜地真澄投手
広島:塹江敦哉投手
DeNA:森下瑠大投手
巨人:馬場皐輔投手
ヤクルト:西村瑠伊斗内野手
中日:福田幸之介投手

オリックス:山足達也内野手
ロッテ:坂本光士郎投手
ソフトバンク:イヒネ・イツア内野手
楽天:前田銀治外野手
西武:山田陽翔投手
日本ハム:宮崎一樹外野手

永久欠番:0球団
投手:7球団
捕手:0球団
内野手:3球団
外野手:2球団

2024年シーズンは投手が6球団、内野手が3球団、外野手が2球団。投手では、今季自身3度目となる50試合以上登板を果たした広島・塹江敦哉、貴重な左腕としてブルペンを支えるロッテ・坂本光士郎、昨オフの現役ドラフトで阪神から巨人へ移籍した馬場皐輔ら中継ぎで活躍する投手が目立つ。

それ以外の球団は、どちらかと言えば期待の若手が多い。ソフトバンクでは2022年ドラフト1位のイヒネ・イツアが着用。新人では、履正社高からドラフト4位で中日へ入団した福田幸之介、山梨学院大からドラフト3位で日本ハムへ入団した宮崎一樹の2人が背負っている。

過去の選手を振り返ると、投手より野手で活躍した選手が多い。ヤクルトは特にその傾向が顕著だ。また、巨人ではV9時代を支えた名脇役がこの番号を背負っていた。

そんな背番号「36」を着用していた日米の名選手や特徴的な球団の系譜を、次章以降で紹介していく。

受け継がれていくヤクルトの背番号「36」

ヤクルトは伝統的に背番号を受け継いでいく球団だ。代表的な「1」を背負う選手は「ミスタースワローズ」とも呼ばれ、チームの中心であることが求められる。初代の若松勉から池山隆寛、岩村明憲、青木宣親、山田哲人と名選手がずらりと並ぶ。この「1」と並んでヤクルトで受け継がれている番号が「36」なのだ。

「ミスタースワローズ」にもなった池山が1984年から背負ったこの番号。その後は川端慎吾、廣岡大志と野手の有望株が継承した。川端はケガに悩まされつつも結果を残し、入団から6年で背番号「5」へと出世。その後は首位打者も獲得、選手会長も務めるなどチームの中心的存在となった。

2016年からは期待の長距離砲である廣岡が着用。デビュー戦でプロ初打席初本塁打を放つ衝撃デビューを飾り、2019年には初の2ケタとなる10本塁打をマークした。しかし、2021年3月に田口麗斗との交換トレードで巨人に移籍。2023年からは京都外大西高kらドラフト2位で入団した西村瑠伊斗が背負っている。背番号「1」に続くヤクルトの出世番号になることを期待したい。

V9時代に背番号「36」を背負った国松彰・柳田俊郎

巨人の背番号「36」は「ON」こと王貞治、長嶋茂雄が活躍していた頃は国松彰、柳田俊郎が背負っていた。

1955年に投手として巨人に入団した国松は、入団3年目に外野手へ転向し、1960年にレギュラーを獲得。1961年からは王、長嶋の前を打つ1番、2番で起用されていた。

1965年から始まった9連覇の初期を中心メンバーとして過ごし、1970年に現役引退。入団から引退まで背番号「36」を背負った。引退後は和菓子店「亀屋万年堂」の経営に携わった。創業者の娘と結婚したからだった。

国松の後にこの番号を背負ったのが柳田俊郎だ。1969年に西鉄から巨人へ移籍し、1971年に背番号「62」から「36」へ変更。控えながらも出場機会を増やしていった。

1974年には規定打席に未到達ながらも打率.335(251打数84安打)、15本塁打、52打点をマーク。1977年に登録名を柳田真宏へと変更すると打率.340(374打数127安打)、21本塁打、67打点とキャリアハイの成績を残した。打撃タイトルこそ獲得できなかったが、恐怖の5番打者として他球団から恐れられた。

国松、柳田以降ではヤクルトから移籍してきた長嶋一茂、高橋尚成、マイケル中村、石川慎吾らが「36」を背負っている。

スピットボールで300勝挙げたゲイロード・ペリー

メジャーリーグで背番号「36」はジャイアンツ、フィリーズ、メッツの3球団で永久欠番になっている。そのうちジャイアンツで永久欠番となっているのが、ゲイロード・ペリーだ。

ペリーはジャイアンツ含め8球団でプレー。メジャー生活22年間で777試合に登板し314勝265敗11s、防御率3.11の成績を残している。サイ・ヤング賞を両リーグで獲得した初めての投手でもある。1983年に現役を引退し、1991年にはアメリカ野球殿堂入りを果たした名投手だった。

ペリーは優れた成績を残した選手ではあるが、違反投球とされている「スピットボール」を多用していた。スピットボールとは、ボールにワセリンなどをつけ、細工して変化球の曲がりを大きくすることだ。

ペリーは、この違反投球をしている事実を逆手に取って審判を翻弄した逸話もあるほど。引退後には自伝で「私とスピットボール」を出版し、アメリカで話題になった。

完投多いタフネス右腕・ロビン・ロバーツ

ロビン・ロバーツも背番号「36」で永久欠番になっている一人だ。1948年にフィリーズでメジャーデビューを果たすと、1950年に20勝をマーク。そこから6年連続20勝以上を達成するなど、リーグを代表する投手となった。

その後、オリオールズ、アストロズ、カブスとわたり歩いて286勝をあげ、1967年に現役を引退。1976年にアメリカ野球殿堂入りを果たしている。

現役途中の1962年に、キャリアをスタートさせたフィリーズで背番号「36」が永久欠番となった。本拠地であるシチズンズバンクパークには銅像が建っているほどの大投手だった。

ロバーツは完投数が多いことでも知られ、1952年から1956年まで5年連続でリーグ最多の完投数を誇っていた。通算305完投はメジャーリーグ歴代36位の記録でもある。

ちなみに37位には同じく背番号「36」で永久欠番となっているペリーが303完投。現在は分業制が進んでおり、この順位は当分、動くことはなさそうだ。

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