プロ野球における背番号33の名選手たち|【SPAIA】スパイア

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プロ野球における背番号33の名選手たち


2017年現役選手の背番号「33」

2017年各球団の背番号「33」は下記の選手が背負っていた。

日本ハム:大田泰示選手(外野手)
ソフトバンク:鶴岡慎也選手(捕手)
ロッテ:南昌輝選手(投手)
西武:山川穂高選手(内野手)
楽天:銀次選手(内野手)
オリックス:縞田拓弥選手(内野手)
広島:菊池涼介選手(内野手)
巨人:マギー選手(内野手)
DeNA:乙坂智選手(外野手)
阪神:糸原健斗選手(内野手)
ヤクルト:畠山和洋選手(内野手)
中日:祖父江大輔選手(投手)

不在:0球団
永久欠番:0球団
投手:2球団
捕手:1球団
内野手:7球団
外野手:2球団

内野手の番号として使用されることが多い背番号「33」。菊池涼介選手(広島)、銀次選手(楽天)といったヒットメーカーから、マギー選手(巨人)、畠山和洋選手(ヤクルト)といった強打者も背負っている。
このように着用している選手を見る限り、2017年現在では番号によるイメージは定着していない。

北海道日本ハムファイターズに2017年から加入した大田泰示選手。読売ジャイアンツ時代に「55」、「44」と背負い、新天地では再びぞろ目の「33」を与えられている。

2度目の監督で背番号「33」を背負った長嶋茂雄監督

1992年オフに長嶋茂雄氏が2度目の監督に就任した際、背番号に選んだのが「33」だった。現役時代の「3」を2つ重ねてこの番号を選んだのだ。

この第2次長嶋政権において長嶋監督が初めて参加した1992年ドラフト会議では、4球団競合だった星稜高校の松井秀喜選手を抽選で引き当てている。当たりくじを確認した瞬間に満面の笑みを浮かべ、サムアップしたシーンは何度も報道などで目にしたシーンでもある。

長嶋監督といえば、就任4年目となった1996年のできごとが印象的だ。巨人は7月上旬の時点で、首位の広島東洋カープに11.5ゲーム差をつけられていた。しかし、ここから驚異的な追い上げを見せ、逆転でリーグ優勝。このできごとを『メークドラマ』と長嶋監督は呼び、新語・流行語大賞にも選ばれている。

1999年まで7シーズンを背番号「33」で戦い、リーグ優勝2回、日本一1回の成績を残す。当時は野村克也監督率いるヤクルトスワローズと、毎シーズン首位を争っており、メディアは『長嶋巨人vs.野村ヤクルト』の構図で取り上げていた。
また、野村監督はデータを中心とした野球、通称『ID野球』を提唱。長嶋監督の野球を『勘ピューター』と皮肉る。このように長嶋監督と野村監督は選手時代だけではなく、監督になってからもライバル関係だったのだ。

第2次長嶋監督時代は1993年から2001年まで続いていたが、背番号「33」は1999年までの着用となっている。それは、広島からFA宣言を行った江藤智選手に譲り渡すためである。

広島の主砲から巨人の主砲へ!江藤智選手

広島東洋カープで、主砲として2度の本塁打王を獲得した江藤智選手。1988年ドラフト5位で関東高校から広島へ入団し、当時は内野手ではなく捕手としてプレーしていた。
高卒ということもあり、1年目は一軍での出場機会はなかった。しかし二軍で活躍し始めたオフには、背番号が「51」から「33」へと変更になる。

1991年に捕手から内野手へ転向すると出場試合数を増やし、1993年にはレギュラーに定着。34本塁打を放ち自身初の打撃タイトルを獲得する。1995年には39本塁打、106打点で二冠に輝くなどリーグ屈指の強打者へと成長した。
当時の広島打線は金本知憲選手(現・阪神監督)、緒方孝市選手(現・広島監督)、野村謙二郎選手(前・広島監督)と多くの名選手が名を連ねていた。そのなかで、江藤選手は主軸を張っていたのである。

その、江藤選手の転機は1999年オフだ。FA権を行使し、巨人への移籍を果たしたのだった。
この際に巨人は江藤選手へのラブコールのひとつとして、長嶋茂雄監督が背負っている背番号「33」を提示。長嶋監督は「33番を江藤君に譲って3番をつける」との発言をしている。これらの言葉も移籍を決める一つの要因となり巨人に移籍し、6年間にわたり在籍した。
晩年は西武ライオンズでプレーし、2009年に現役を引退。最後にプレーした西武でも背番号「33」を背負っていた。

通算防御率1.99は歴代第4位!若林忠志選手

戦前から戦後初期にかけて大阪タイガース(現・阪神タイガース)、毎日オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)で活躍した若林忠志選手。通算237勝をあげている名選手だ。大阪時代の1939年に28勝を挙げると、1944年までの6年で5度の20勝以上を達成。
1944年には22勝4敗、防御率1.56の成績を残し最多勝、最優秀防御率、最高勝率のタイトルを獲得している。太平洋戦争を挟み1949年まで大阪でプレーする。

1950年にセ・パ2リーグ制になるとパリーグの毎日オリオンズへと移籍。往年の力は無く、3年間でわずか4勝に終わっている。この毎日時代に背負った背番号が「33」だった。

16年間の現役生活で237勝144敗、防御率1.99の記録を残している若林選手。なかでも防御率1.99は歴代第4位となっており、プロ野球史上4人しか存在しない通算防御率1点台の選手でもある。(2000投球回以上)

1965年に胃がんで亡くなった際にはプロ野球葬が行われている。

選手時代は背番号がなかったホーナス・ワグナー選手

メジャーリーグにおけるレジェンドのひとりでもあるホーナス・ワグナー選手。ワグナー選手のトレーディングカードは希少価値が高く、保存状態のよいものは1枚2億円で取引されることもあったほどだ。
元はたばこの”おまけ”として配布されたワグナー選手のカードだったが、彼自身がカード欲しさゆえ子どもがタバコを買うことを快く思っていなかった。そのためカードの回収を行わせた結果、当時市場に出回っていたカードが極端に少なくなり、このような価値を生むことになった。

プレーヤーとしてのワグナー選手は、21年間の現役生活で通算3420安打を記録。首位打者を8度獲得するなどピッツバーグ・パイレーツの中心選手だった。

パイレーツでは、ワグナー選手の背番号として「33」が永久欠番となっている。しかし、ワグナー選手の活躍した1900年代初頭に背番号をつける習慣がなかったので、現役時代にこの番号を背負っていない。この背番号「33」は、打撃コーチとして現役引退後に背負っていたものである。

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西地区
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