プロ野球における背番号30の名選手たち|【SPAIA】スパイア

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プロ野球における背番号30の名選手たち


2017年現役選手の背番号「30」

投手、野手ともに着用することのある背番号「30」。 2017年各球団の背番号「30」は下記の選手が背負っている。

日本ハム:鍵谷陽平選手(投手)
ソフトバンク:武田翔太選手(投手)
ロッテ:大嶺祐太選手(投手)
西武:岡本洋介選手(投手)
楽天:池田隆英選手(投手)
オリックス:岩﨑恭平選手(内野手)
広島:一岡竜司選手(投手)
巨人:宮國椋丞選手(投手)
DeNA:飯塚悟史選手(投手
) 阪神:石崎剛選手(投手)
ヤクルト:西田明央選手(捕手)
中日:阿知羅拓馬選手(投手)

不在:0球団
永久欠番:0球団
投手:10球団
捕手:1球団
内野手:1球団
外野手:0球団

古くは監督の背番号として使用されていた背番号「30」。2017年現在は主に投手の番号となっており、10球団で投手の番号だ。
このなかでエース級と言えるのは、福岡ソフトバンクホークスの武田翔太選手ただひとり。その他の選手から大きな実績を残す選手が現れることを期待したい。

読売ジャイアンツの監督が受け継いだ背番号「30」

東京六大学野球をはじめとした大学野球連盟の多くは、監督の背番号を「30」としている。これは、背番号を「30」までしか着用できない時代があり、監督が最も大きい番号をつけていたということに由来すると言われている。その影響もあり、プロ野球でも背番号「30」を背負う監督は多かった。
読売ジャイアンツは1936年の初代背番号「30」である浅沼誉夫監督にはじまり、1937年、1938年こそ監督ではないが、1939年以降は1960年まで三原脩監督時代の3年間をのぞいて全て監督が背負っていた。1939年から1942年までを藤本定義監督、その後中島治康選手兼任監督が着用。

三原脩監督が指揮を執った1947年途中から1949年にかけては、背番号「30」を中島選手がそのまま使用していた。三原監督の就任に伴い、中島選手が監督兼任を外れ選手専任となったため、監督の番号ではなくなったのだ。このとき、三原監督は背番号「31」だった。
その後、巨人の黄金時代を築いた水原茂監督が、1950年から1960年までの11年間にわたり背番号「30」を背負いる、その間に8度のリーグ優勝、4度の日本一にも輝いている。巨人において、11年間に渡り背番号「30」を背負ったのは選手を含めても最長タイだ。

水原監督が退団後に、背番号「30」をつけた監督はいない。今後巨人で、背番号「30」の監督は現れるのだろうか。そのためには、高橋由伸監督のように現役時代に活躍し、そのまま監督に就任するケースをまつことになりそうだ。

掛布雅之選手とのライバル物語:江川卓選手

読売ジャイアンツの選手において、背番号「30」といえば江川卓選手だろう。法政大学卒業時の1977年ドラフト会議で、クラウンライターライオンズから1位指名を受けたが入団を拒否。翌1978年ドラフト会議前日に、読売ジャイアンツと契約したという通称「空白の一日事件」だ。
しかし、この契約は認められず、巨人はドラフトをボイコットし、4球団が1位指名を行った結果、阪神タイガースが江川選手の交渉権を獲得した。その後、江川選手は阪神に一度入団し、トレードする形で巨人入りを果たすことになる。その際に与えられた背番号が「30」だった。

江川選手は1年目こそ9勝10敗と負け越しに終わるが、2年目に16勝を挙げ最多勝を獲得。ここから引退する1987年まで8年連続で二桁勝利を達成するなど、リーグを代表する投手となった。

また、同学年にあたる「ミスタータイガース」こと掛布雅之選手(阪神)とは、毎年のように名勝負を繰り広げていた。初対決では、高卒でプロ入りを果たしている掛布選手がプロの先輩としての意地を見せ本塁打し、これが名勝負の始まりとなったのだ。
その後も掛布選手とは、巨人のエースと阪神の4番という立場で幾度となく対戦しており、江川選手の引退年である1987年に行われた最後の対戦では、掛布選手から三振を奪い名勝負の幕は閉じた。江川選手は掛布選手に14本塁打を浴びたものの、21個の三振を奪っている。掛布選手も江川選手の後を追うように、翌1988年に現役を引退した。

江川選手の引退以降、翌年からは橋本清選手が背番号「30」を着用しており、投手の番号として受け継がれている。

歴代最多勝:鶴岡一人監督

読売ジャイアンツ以外の球団でも、背番号「30」は監督が着用していた。福岡ソフトバンクホークスの前身球団でもある南?ホークス(1938年から1946年まではグレートリング)は、1938年から1965年まで一貫して背番号「30」は監督の番号だった。(1947年~1952年までは山本一人選手兼任監督)

なかでも1947年に山本一人選手兼任監督(1959年に鶴岡一人に改姓)が、「1」から「30」へ変更すると1965年まで19年間着用している。背番号「30」を着用していなかったシーズンも含め、23年間にわたる監督生活で積み上げた白星は1773で、これは日本プロ野球史上最多勝利数となっている。また、勝率.609は歴代トップの数字となっており、長く監督を務めただけではないことがわかる。

鶴岡監督以降1979年まで空き番号となっていた背番号「30」だが、1980年に高英傑選手が着用すると、その後は一度も空き番号となることなく、2012年からはドラフト1位で入団した武田翔太選手が使用している。

「ライアン・エクスプレス」ことノーラン・ライアン選手

「ライアン・エクスプレス」と呼ばれ、メジャーリーグ記録となっている5714奪三振をマークしたノーラン・ライアン選手。ヒューストン・アストロズ、テキサス・レンジャーズ時代の背番号「34」が有名だが、ニューヨーク・メッツ、カリフォリニア・エンザルス時代は背番号「30」を背負っていた。

1966年のメジャーデビューから1971年までのメッツ時代には、大きな実績がなかったライアン選手。1972年にエンゼルスへ移籍すると、19勝をマークし初めてオールスターゲームにも出場。1979年まで8年間所属したが毎年二桁勝利を達成している。

ライアン選手は1993年に現役を引退しているが、引退前年の1992年にエンゼルスで背番号「30」が永久欠番となった。その後アストロズ、レンジャーズで背負った背番号「34」も永久欠番となる。ライアン選手は史上初めて3球団で永久欠番となった選手でもあるのだ。

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