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西武・松井稼頭央監督も背負った出世番号 プロ野球における背番号32の選手たち

2023 6/30 11:00SPAIA編集部
(左から)ロッテの佐藤都志也、阪神の井上広大、ソフトバンクの柳町達,ⒸSPAIA
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2023年現役選手の背番号「32」

2023年各球団の背番号「32」は下記の選手が背負っている。

オリックス:福永奨捕手
ソフトバンク:柳町達外野手
西武:山村崇嘉内野手
楽天:不在
ロッテ:佐藤都志也捕手
日本ハム:谷内亮太内野手

ヤクルト:松本直樹捕手
DeNA:益子京右捕手
阪神:井上広大外野手
巨人:鈴木康平投手
広島:石原貴規捕手
中日:石垣雅海内野手

投手:1球団
捕手:5球団
内野手:3球団
外野手:2球団

2023年シーズンの背番号「32」は投手、捕手、内野手、外野手と各ポジションの選手が背負っており、ロッテ・佐藤都志也、オリックスの福永奨ら捕手が最多の5球団となっている。

今季から変更となったのは3球団。広島では2008年から「32」を背負い続けた白濱裕太が昨季限りで現役を引退。今季から同じ捕手の石原貴規が受け継いだ。巨人では廣岡大志とのトレードで加入した鈴木康平が着用。楽天は昨季まで付けていたブセニッツが退団し、空き番となっている。

過去を振り返ると、背番号「32」で現役をスタートさせ、結果を残して若い番号へと移った選手も多い。西村徳文(前オリックス監督)や松井稼頭央(現西武監督)、浅村栄斗(楽天)らはそのパターンだ。

阪神・井上広大、ソフトバンク・柳町達、西武・山村崇嘉ら、現在この番号を背負う将来を嘱望される若手たちも、今後の活躍いかんでは若い番号へと移り変わっていくかもしれない。

そんな背番号「32」を着用していた歴代の名選手や特徴的な球団の系譜を、次章以降で紹介していく。

松井稼頭央から浅村栄斗へ受け継がれた西武の背番号「32」

西武でトリプルスリーを達成するなど輝かしい実績を残した松井稼頭央。メジャーリーグ挑戦後、楽天を経て古巣・西武で現役を終え、2019年から二軍監督、2022年に一軍ヘッドコーチ、そして2023年には一軍監督に就任した。

1993年のドラフト3位でPL学園から入団した際に与えられた背番号は「32」だった。2年目の1995年に一軍初出場を果たし、65試合に出場する。翌1996年から2003年まで全試合出場。ブレイクのきっかけとなる初めての全試合出場を果たした1996年オフに、背番号を「7」へと変更した。

松井が西武で「32」を背負った期間は3年と短かった。しかし、楽天に加入した2011年にも背番号「32」を背負った。

松井の後に犬伏稔昌、石井義人ら4選手を挟み、2009年から背番号「32」を背負ったのが浅村栄斗だ。大阪桐蔭からドラフト3位で入団し、3年目にレギュラーを獲得するとチームリーダーに成長。2017年に背番号「3」へ変更するまで2度の打率3割を記録し、2013年には打点王に輝くなど、強打の内野手としてチームを引っ張った。

2021年からは山村崇嘉がこの番号を背負っているが、松井、浅村のように開花できるか注目が集まる。

元ロッテ、オリックス監督の西村徳文も入団時は「32」

2010年から2012年の3シーズンでロッテ、2019年から2020年シーズン途中までオリックスの監督を務めた西村徳文も入団時は背番号「32」だった。1981年ドラフト5位で鹿児島鉄道管理局からロッテに入団。3年目の1984年にレギュラーを獲得すると、翌1985年には打率.311をマーク、さらに1986年には36盗塁で初のタイトルを獲得した。

この活躍によって翌1987年からは背番号「3」に変更。以降、盗塁王を3度、首位打者を1度獲得するなど実績を残した。現役途中に二塁手から中堅手へのコンバートも経験しており、両ポジションでゴールデングラブ賞を獲得。走攻守三拍子揃った選手だった。

現役引退後はロッテのコーチを経て監督に就任し、1年目の2010年にはレギュラーシーズン3位ながらも、クライマックスシリーズ、日本シリーズを勝ち抜き日本一に輝いた。2012年に退任すると、2016年シーズンからはオリックスのコーチを務め、2019年から監督に就任したが、2020年シーズン中に成績低迷のため辞任した。

ヤクルトで現役を終え横浜の監督になった大矢明彦と尾花高夫

ヤクルト一筋16年間で1552試合に出場し、1144安打を放った大矢明彦。1969年のドラフト7位で駒澤大学からヤクルトに入団した当初は「32」を背負っていた。

ドラフト下位指名だったが、1年目から93試合に出場すると、2年目からは正捕手として活躍。打撃タイトルの獲得はなかったが、ベストナイン2回、ダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデングラブ賞)を6度獲得した。2年目の1971年から背番号「27」に変更し、引退まで背負い続けた。

大矢と同じくヤクルト一筋で現役を終えた尾花高夫。1977年のドラフト4位でプロ入りすると、2年目からローテーションに定着して6度の2桁勝利をマークするなど14年間で112勝をマークした。

尾花の背番号は入団から引退まで一貫して「32」。チームは低迷期だったがエース格としてチームを支えた。

この二人には共通点がある。現役引退後に横浜の監督を務めていることだ。大矢監督は2期(1996年、1997年、2007年から2009年)、尾花監督は2010年から2年間、指揮を執った。ヤクルトの「32」を背負った二人が他球団の監督を務め、2009年には大矢監督から尾花監督にバトンタッチしている。

ヤクルトの「32」は捕手が多く、大矢以降も小野公誠、新田玄気、そして現在も背負う松本直樹と、3人の捕手がこの番号を受け継いでいる。

サイ・ヤング賞3度のサンディー・コーファックス

メジャーリーグにおける伝説的な投手の一人であるサンディー・コーファックス。1955年にブルックリンドジャース(現ロサンゼルスドジャース)でメジャーデビューを果たす。

デビュー当初は目立った成績を残していなかったが、1961年に18勝13敗、269奪三振をマークしてブレイク。この年から1966年まで6年連続で2桁勝利を達成、しかも1962年から5年連続で最優秀防御率のタイトルを獲得した。1963年、1965年、1966年とサイ・ヤング賞に3度も輝いた。

しかし、コーファックスは27勝9敗、防御率1.73、317奪三振で投手三冠に輝き、サイ・ヤング賞を受賞した1966年に突如として引退する。まだ30歳だったが、左肘の故障もあり「引退してからを健康に過ごしたい」という理由だった。

通算165勝87敗、2396奪三振、防御率2.76と輝かしい成績。圧倒的な投球はファンの脳裏に刻まれており、ドジャースで背負った背番号「32」は、野球殿堂入りを果たした1972年に永久欠番に制定されている。

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