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プロ野球における背番号15の名選手たち

2017 9/13 14:03cut
野球,ボール
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初代「ミスタードラゴンズ」こと西沢道夫選手

中日ドラゴンズの永久欠番で、もっとも早く制定されたのが西沢道夫選手の背番号「15」である。西沢選手は一リーグ時代の1937年に入団し、投手と野手の二刀流として初期のチームを支えていた。1940年には20勝(9敗)、1950年には46本塁打をマークしており、日本プロ野球において20勝、40本塁打を達成したのは、西沢選手ただひとりである。

二リーグ制となった後も、1952年に打率.353、98打点で首位打者、打点王に輝くなど、初代「ミスタードラゴンズ」と呼ばれていた選手でもある。

1958年シーズンをもって現役を引退しているが、その際に背番号「15」を永久欠番とすることを条件に、現役を退いたとのことを後に杉下茂氏が語っている。この条件を出されたもうひとりが服部受弘選手だった。服部選手が背負っていた背番号「10」も翌年(1960年)に永久欠番となっている。

西沢選手は、1963年から1966年までのコーチ監督時代の間も背番号「15」を背負っているのだが、なぜか監督最終年である1967年は「63」だった。

1977年に野球殿堂入りを果たしたが、体調不良もあり同年12月に56歳の若さで亡くなっている。

「炎の中継ぎ」こと藤井将雄選手

1994年ドラフト4位で、日産自動車九州から福岡ダイエーホークスへと入団した藤井将雄選手。社会人出身の即戦力投手候補ということもあり、背番号「15」と期待の番号を託された。前身球団の南海ホークスでは、日本人メジャーリーガー第1号となる「マッシー村上」こと、村上雅則選手が着用していた背番号でもある。

藤井選手はその期待に応え、1年目から中継ぎとして登板し、4年目となる1998年には48試合、翌1999年には59試合に登板し、防御率2.89と中継ぎの柱へと成長した。

しかし、1999年終了後に肺がんで入院。2000年には二軍戦で登板できるほどまでに回復したが、一軍復帰は叶わず10月13日に死去。現役選手として登録中のできごとだった。

このできごとがあり、背番号「15」は翌2001年より準永久欠番扱いとされ、その後背負った選手はいない。また、本拠地であるヤフオクドームの15番ゲートは「藤井ゲート」と呼ばれており、藤井選手が入院中に残したメッセージが飾られている。

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