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剛腕うなる本格派守護神!栃木県出身の現役プロ野球選手を紹介

2017 8/3 12:53TANANA
栃木県
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Photo by srattha nualsate / Shutterstock.com

入団当時は先発の柱として、そして現在は守護神として八面六臂の活躍を見せる読売ジャイアンツの澤村拓一投手は、地元である栃木県において積極的な社会貢献もしている。 今回はそんな澤村投手の実績と地元での活動を紹介していく。

少年時代から個性的だった澤村投手のアマチュア時代

栃木市出身の澤村投手は、小学校2年生の時から野球を始め、6年生時には投手に専念する。この頃から自己主張が強く、理想的なフォームを追い求めるなど、自分のピッチングに徹底したこだわりを持っていた。佐野日本大学高校野球部時代には3番手の扱いで登板機会がなく終わってしまったものの、中央大学進学後にその才能が開花する。
2年生時に初先発の機会が与えられると、いきなり初完封勝利を飾り、一気にエースの座をつかむ。しかし、とにかく速い球を投げることにこだわり、制球力や変化球の習得をおざなりにしていたので、監督やチームメイトから苦言を呈されていた。彼自身も3年生の頃から徐々に周囲の意見を取り入れるなど成長の跡を見せ、ピッチャーとして完成の域に近づいていく。 そしてついに2010年、読売ジャイアンツにドラフト1位で指名され、プロ入りを果たした。

新人王も獲得した先発時代の澤村投手の初期の活躍と成績低迷

ルーキーイヤーとなる2011年は開幕一軍入りを果たし、2試合目の先発で早くもプロ初勝利を挙げる。しかし、その後は安定したピッチングを披露するものの打線の援護に恵まれず、負けが先行してしまった。それでも9月にはようやく投打がかみ合い5勝1敗と復調。結局この年は11勝11敗の成績で、新人王を獲得した。
2年目も先発として10勝を挙げるものの10敗を喫し、前年と同じく貯金ゼロに終わる。この頃から「相手を力でねじ伏せる」ことを至上命題として、上半身の筋力強化をはじめとして徹底的な肉体改造に取り組むようになったが、全身のバランスが悪くなり、投球も不安定化。以降は成績が低迷してしまう。

リリーフへの配置転換で新境地を開いたプロ5年目

プロ3年目、4年目と各5勝ずつしか挙げられず、完全にスランプ状態に陥った澤村投手。刺激となったのが、2015年の「抑え」への配置転換だった。試合終盤を任せられる投手が不足していたというチーム事情から実行されたプランだったが、彼はその期待に応える。
ランナーを出してしまう割合が高く、決して安定感のあるリリーフとは言えなかったが、前半戦だけで20セーブに達し、その後も順調に記録を積み重ね、最終的には36セーブに達し、守護神の地位を確立するのだ。
2016年も同様に最後の1イニングを任される機会が多く、時に逆転打を浴びる不安定感は相変わらずだったものの、37セーブを記録してセーブ王を獲得するまでに至った。

澤村投手の豪快なピッチングスタイルを紹介

澤村投手のピッチングスタイルは、年を経るごとに変わってきている。大学生時代はとにかく速さにこだわり、最速157キロを計測したこともあった。プロに入ってからは打者を打ち取ることを意識し、平均145キロ程度のストレートと、スライダー、カーブ、スプリットといった各種変化球を投げ分けるようになる。
そして抑えに転向してからは、ほぼストレートとフォークで投球を組み立てるようになった。剛球で相手をねじ伏せる投球を信条としているが、コントロールが甘くなることもあり、時に痛打を浴びる場面もあるものの、調子が良い時には手を付けられないほどの好投を見せることもある。

故郷で子どもたちと積極的に交流!澤村投手の社会貢献活動を紹介

プロ入り直後から読売ジャイアンツの貴重な戦力として活躍する澤村投手だが、故郷である栃木県では自分を育ててくれた恩返しをすべく、積極的な社会貢献活動を行っている。
同僚であり同じ栃木市出身でもある寺内崇幸選手とともにふるさと大使に就任し、栃木市の積極的なPRに一役買っているほか、2011年には球団の企画で母校の小学校に里帰り。子供たちとキャッチボールなどをして野球の楽しさを伝えたり、教室では給食当番をして配膳をお手伝い。給食を一緒に食べたりして交流を深めた。

まとめ

以上見てきたように、読売ジャイアンツの澤村拓一投手は、自らのピッチングスタイルに強いこだわりを持ち、それが時には不安定な投球につながってしまうこともあるものの、新人王やセーブ王など、確かな実力で個人タイトルを手にしてきた。 今後より安定性が増してきた時、どれだけ抜群な成績を残していくのか、大きな期待を持てる投手と言えるだろう。