3球団でリーグ優勝
星野仙一氏は中日、阪神、楽天で17年間監督を務め通算1181勝、3球団ともにリーグ制覇を果たした。また、北京オリンピックでは日本代表の監督として世界の舞台でも戦った。
2013年に楽天でリーグ制覇し、3球団目の優勝を飾ったが、これはプロ野球史上3人目の偉業だった。過去に3球団で優勝を達成したのは三原脩監督、西本幸雄監督と球史に残る名将だけだ。
【プロ野球3球団優勝監督】
三原脩監督:巨人、西鉄、大洋
西本幸雄監督:大毎、阪急、近鉄
星野仙一監督:中日、阪神、楽天
三原監督は「魔術師」と呼ばれ27年間の監督生活で6度の優勝を誇る。1958年の日本シリーズでは巨人に3連敗しながら4連勝で逆転優勝。これは日本シリーズ史上はじめての出来事だった。
西本監督は8度のリーグ優勝を果たしながら1度も日本一になることができず、「悲運の名将」と呼ばれた。
楽天で3球団目のリーグ優勝を果たした星野監督は、2013年の日本一の翌年に健康上の理由もあり監督を退任している。
通算1181勝は歴代10位の記録となっており、V9時代の巨人を率いた川上哲治監督(1066勝)をも上回っている。
血気盛んな中日監督時代に2度のリーグ優勝
中日一筋14年の現役生活を送り、引退後はコーチ職にはつかずテレビ解説などを行っていた。監督に初めて就任したのは1987年シーズンからだ。古巣・中日の山内一弘監督の退任後に声がかかり星野監督が誕生した。
監督就任した星野監督は大胆な改革を行う。ロッテからトレードで三冠王の落合博満選手を獲得。チームの功労者でもある谷沢健一選手に引退勧告をして大幅な戦力整備を行った。阪神監督時代にも行った大胆な血の入れ替えは、この時が初めてだった。
当時まだ40代前半と若く「闘将」と呼ばれた指揮官は、1987年の就任1年目が2位、2年目の1988年にはリーグ優勝を果たした。1991年までの5年間、優勝1回、Aクラス4回と結果を残すが家族の看病のために退任。再び解説者に戻った。
5年間現場を離れた星野監督は再び1996年に監督へ復帰する。第二期では6年間監督を務め1999年にリーグ優勝。しかし、自身2度目の日本シリーズでも日本一には届かず、2001年に5位となったことで監督を辞任した。
中日時代の星野監督は血気盛んなイメージで知られていた。珍プレー好プレーなどのテレビ番組でも、ベンチ内で暴れる姿が取り上げられることも多く、ファンの間でも周知の事実だった。
「勝ちたいんや」阪神18年ぶり優勝
2001年に中日の監督を退任した星野監督は、間を置かずに2002年から阪神の監督を務める。当時の阪神は4年連続最下位と不振に喘いでおり、野村克也監督が沙知代夫人の逮捕の責任を取って辞任したばかりだった。
星野監督は負け癖の付いた阪神を蘇らせるために様々な改革を断行。当時の阪神球団オーナーに「失礼だが負けているのはあなたの責任ですよ」と直言したとも言われている。
2002年は開幕7連勝を飾るなど、絶好のスタートを切るが最終的には4位に終わる。Bクラスとはいえ、5位と6位が続いていた阪神にとって、4位は1994年以来8年ぶりのことだった。同年オフ、星野監督は優勝するために思い切った補強を行う。
FAで広島の金本知憲選手、メジャーリーグでプレーしていた伊良部秀輝投手といった投打の柱を獲得。トレードで下柳剛投手、野口寿浩捕手も獲得するなど、多くの選手を補強し血の入れ替えを断行した。そして「勝ちたいんや」と訴えた星野監督の言葉を具現化することになる。
大きく生まれ変わったチームは開幕直後から首位を独走。マジック2で迎えた9月15日、デーゲームの広島戦にサヨナラ勝ちし、マジック対象チームのヤクルトが敗れたため、1985年以来18年ぶりとなるリーグ優勝を飾った。日本シリーズでは3勝4敗で敗れたものの、阪神の歴史を変える1年となった。
しかし、かねてからの健康問題もあり勇退。岡田彰布監督にバトンを渡した。
采配ミスを認めた北京オリンピック
2003年オフに阪神の監督を勇退後は現場に出ていなかった星野監督。しかし、2008年に開催される北京オリンピックの日本代表監督に就任することになり、大学時代からの盟友でもある田淵幸一、山本浩二両氏をコーチに選んだ。
オリンピックということもありイチロー選手らメジャーリーガーは参加せず、国内組でチームを編成。当時の国内最強チームで大会に挑んだ。しかし、「金メダル以外はいらない」と公言していたにも関わらず結果は4位。星野監督の采配は批判を呼び2009年の第2回WBC監督就任もなくなる事態となった。
この大会では不振の選手を連続で起用するなど、情に流されているように感じられる采配もあり、勝ちに徹することができなかった。この点に関して後に「俺の弱さが出た」と自身の采配ミスを認めている。
監督としての集大成となった楽天時代
2003年に阪神を優勝に導きながら健康上の理由もあってユニフォームを脱ぐと、2004年からは阪神のシニアディレクターとして活動。2008年に北京オリンピック日本代表の監督を務めた後、2011年に楽天の監督に就任するこれに伴い、阪神のシニアディレクター職は退任している。
楽天の前任はブラウン監督だったが、その前に率いていたのが野村克也監督だった。野村監督は4年間に渡ってチームの基礎を作り、創設間もないチームをクライマックスシリーズに進出できるチームへと成長させていたのだ。阪神時代と同じように野村監督が幹を作り、星野監督が花を開かせることに期待が高まった。
楽天初年度となった2011年は前年の6位から一つ順位を上げて5位、2012年は4位と徐々にではあるがチームを上昇させる。2012年は4位とBクラスではあったが、2009年以来の勝率5割を達成。2013年シーズンに期待を抱かせた。
星野監督の集大成と言えるのが、2013年シーズンだった。新外国人のアンドリュー・ジョーンズ選手、ケーシー・マギー選手が活躍。さらには田中将大投手が24勝0敗と圧倒的な成績を残し、チーム創設9年目で初のリーグ優勝を果たしたのだ。
このシーズンでリーグ優勝を決めた試合、クライマックスシリーズを勝ち抜いた試合で田中投手がリリーフとしてマウンドに上がり、試合を締めくくった。日本シリーズ第7戦の最終回でも同じように田中投手が登板。結果的に日本一になったものの、前日に160球を投げていたにも関わらず連投させたことは、日米を巻き込んだ議論にもなった。
この星野監督の采配を批判する意見があったのは事実。しかし、ファンが望むものを見せ、それに応えた田中投手の渾身の投球が、プロ野球史に大きな1ページを残したこともまた事実だ。批判を浴びることは覚悟の上で、信じた道を突き進むのが星野仙一という男なのだ。
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