【球史に名を残した偉人達】中日のエースナンバー「20」星野仙一選手|【SPAIA】スパイア

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【球史に名を残した偉人達】中日のエースナンバー「20」星野仙一選手


リーグ優勝を果たせなかった明治大学時代

星野選手は岡山県倉敷市出身で高校は地元の倉敷商業に入学。甲子園を目指すが在学中は東中国大会決勝が最高成績となり本大会への出場は叶わなかった。
倉敷商業卒業後に星野選手は東京六大学の名門である明治大学へ進学。東京六大学野球で明治のエースとして活躍する。明治大学時代の島岡吉郎監督には大きな影響を受けており卒業後も「オヤジ」として慕っていた。これは、島岡監督の教えに共感したことだけでなく星野選手の父親は出生前に亡くなっており実の父親を知らなかったことも影響しているかもしれない。
4年間通算で63試合に登板、23勝24敗と負け越したものの防御率1.91の好成績を残すがリーグ優勝を飾ったことはなかった。
優勝はないものの実力は評価されており、この年のドラフトで法大三羽烏と呼ばれていた山本浩二選手、田淵幸一選手、富田勝選手と同じく目玉の一人となった。
また、4年時には主将を務めている。明治大学硬式野球部の主将から中日に入団しエースとなったのは星野選手の他にも川上憲伸選手がおり、2016年ドラフト1位で入団を果たした柳裕也選手にも同様の期待が掛けられているのだ。

「島と星の間違いじゃないか?」

星野選手は1968年のドラフト会議で中日から1位指名を受け入団を果たす。この年のドラフトは豊作となっており『ミスター赤ヘル』山本浩二選手、稀代のホームランアーティストである田淵幸一選手、『ミスターロッテ』の有藤通世選手らが同期入団となっている。
また、山田久志選手、大島康徳選手、東尾修選手、福本豊選手、加藤秀司選手といった後に名球会入りを果たした名選手たちも星野選手の同期となった。
星野選手は巨人に「田淵くんを指名できなかったら星野くんを指名する」と指名確約をもらっていたが巨人は高校生の島野修選手を指名。「島と星の間違いじゃないか?」と星野選手が発言したのは有名なエピソードとなっている。
このエピソードもあり星野選手は中日に入団後、巨人に対して、負けたくないという強い気持ちを持つようになったのだ。このドラフトが『燃える男』の原点と言ってもいいだろう。

エースナンバーを背負って

星野選手は中日からドラフト1位で指名され入団一年目から先発、中継ぎとしてチームに貢献した。ルーキーイヤーとなった1969年には8勝、翌1970年に二桁勝利となる10勝を挙げエース級へと成長する。
この活躍が認められた星野選手は、3年目となる1971年に中日のエースナンバーでもある背番号「20」へと変更する。中日の背番号「20」は『フォークボールの神様』こと杉下茂選手、『権藤、権藤、雨、権藤』で有名な権藤博選手が背負ってきた番号だ。中日にとって栄えある番号を3年目にして星野選手は身につけることになったのだ。
背番号を変更した1971年にはヒジを故障しており投球スタイルの変更を余儀なくされるが1971年、翌1972年と9勝をマーク。そして、1973年には16勝を挙げる活躍。1974年には先発、抑えを歴任し15勝9敗10Sの成績をマークし沢村賞、最多セーブのタイトルを獲得する。最多セーブはこの年から制定されたタイトルで星野選手が初代のタイトルホルダーとなった。
1975年には17勝、1977年には18勝を挙げるなどチームのエースとして活躍。背番号「20」に恥じない成績を残す。 1982年まで現役を続けた星野選手は通算500試合に登板し146勝121敗34S、防御率3.60の成績を残し引退する。
星野選手が背負った中日のエースナンバーである「20」は1984年に「スピードガンの申し子」と呼ばれる小松辰雄選手に受け継がれた。

宇野選手のヘディング事件の際に星野選手は…

プロ野球珍プレー好プレーで定番となっている『宇野勝選手のヘディング事件』。このシーンは宇野選手のヘディングの瞬間がクローズアップされるが、投手であった星野選手がグラブを叩きつけるシーンまでがワンセットとなっている。
宇野選手がヘディングしたボールがレフトフェンス際まで転がり走者がホームに還ってくる。そのとき、星野選手はベースカバーとしてホーム横に立っており、得点が入ったところで悔しさのあまりにグラウンドへグラブを叩きつけたのだ。
その様子は当時のまだ粗いテレビ画面で見ても、『あれは、星野選手だな』とわかるような光景だった。このシーンは現在でもプロ野球珍プレー好プレーの総集編などでも取り上げられており、歴代の名場面で必ずと言っていいほどランクインしている。
ヘディングだけでここまで取り上げられているわけではなく、投手が星野選手であったことや怒り方が激しかったことが重なって取り上げられているのだ。

巨人キラーとしても活躍

星野選手は中日入団から巨人キラーとして活躍。巨人戦通算で35勝31敗をマークしており、30勝以上を巨人から挙げている投手の中で勝ち越しとなっているのは星野選手、平松政次選手、川口和久選手の3人のみとなっている。
平松選手と星野選手は共通点も多く同じ岡山県出身で巨人キラーとして名を馳せ野球殿堂入りを果たす。野球殿堂入りを果たしたのも2017年に二人揃ってとなっている。
巨人戦に勝ちたいという思いを誰よりも強く持っていた星野選手。それには理由があった。当時の巨人戦は全国中継となっておりテレビで自分の姿が放送される。地元岡山では19時から放送が開始されるために「少なくとも先発投手として19時まで投げたい。そこまでは監督に投手交代させられないように頑張る」と語っている。それは、地元岡山にいる仲間や家族に自分の姿を見せたいそんな思いから生まれていたのだ。
また、1973年に中日がリーグ優勝を果たした際は「巨人に勝ったから日本シリーズなんていらない」と発言。巨人に勝つことだけに執念を燃やしてきたことがよく分かるエピソードだ。
星野選手は現役引退後に中日、阪神、楽天の監督に就任し打倒巨人に燃えていたがその心は現役時代に培われたものだったのだ。監督として最初で最後となる日本一になった2013年に、日本シリーズで戦ったのが巨人だったのもそういった因縁なのかもしれない。

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