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日本シリーズで奇跡を2度体験!仰木彬監督【球史に名を残した偉人達】

2017 6/30 12:56cut
ボール
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近鉄監督時代に最初の優勝を体験

仰木彬氏は西鉄ライオンズで14年間の現役生活を終えコーチに就任。その後、西鉄ライオンズから近鉄バファローズへ移籍し、西本幸雄監督らの名将に仕えてきた。その仰木コーチが監督になったのは1988年で、現役を引退してから21年たった53歳のときだった。

仰木監督は西武ライオンズの黄金時代ともいうべき、1980年代後半に近鉄の監督へ就任した。その就任初年度となった1988年は、30年以上経過した年現在でも語り継がれている伝説の「10.19」を経験。優勝は逃したものの、絶対王者とも呼べる西武に対し最後の最後まで食い下がった。

翌1989年には前年の雪辱を果たすべく、一致団結して挑み西武、オリックス・ブルーウェーブと共に「混パ」を演出。首位・西武に引導を渡したのは10月12日に行われたダブルヘッダーだった。この2試合でブライアント選手が4打数連続本塁打を放つなどの活躍で2連勝。マジック2となり、2日後の10月14日についに優勝を飾った。

10.19から360日経過したこの日、ついに仰木監督は悲願を達成した。

3連勝後の4連敗を喫した日本シリーズ

仰木監督就任2年目となった1989年にリーグ制覇。監督として初めての日本シリーズに臨むことになった。この日本シリーズは多くの野球ファンが忘れることのないシリーズとなった。

1958年の西鉄ライオンズが、読売ジャイアンツとの日本シリーズで3連敗後に4連勝を果たした再現が起きたからだ。1958年の日本シリーズでは巨人が3連勝した後に、稲尾和久投手の4連勝で西鉄が逆転優勝。仰木監督は選手として出場し、三原脩監督の下で3連敗後の4連勝を経験していた。

それから31年経った1989年の日本シリーズ、仰木監督率いる近鉄は巨人に対して3連勝し、球団創設以来初となる日本一まであと一歩に迫った。その試合後に近鉄の加藤哲朗投手が「巨人はロッテより弱い」と発言したことが報じられ、巨人ナインが発奮。そこから粘りを見せた巨人に4連敗を喫し、大逆転劇を喫することになったのだ。

仰木監督は選手時代に3連敗後の4連勝を経験し、監督として3連勝後の4連敗を経験したことになった。

「イチロー」と名付け、売り出すことに成功

仰木監督は1988年から1992年までの5年間、近鉄の監督を務めBクラスに落ちることなく、5シーズン共にAクラスで退任となった。優勝は1989年の1度のみではあったが、近鉄の黄金期の一つといってもいいほどの実績を残した。

退任後1年の空白期間を経て、1994年からオリックス・ブルーウェーブの指揮を執る。その初年度に行ったのが、登録名の変更だった。鈴木一朗選手、佐藤和弘選手をそれぞれ「イチロー」、「パンチ」として売り出し始めた。

イチロー選手は当時一軍での実績はなく、高卒3年目の若手有望株の状態だった。その素質を見抜いた仰木監督は、開幕戦から2番・中堅でスタメン起用。この年、イチロー選手は大ブレイクを果たし、当時のシーズン最多安打記録となる210安打を達成。彗星のごとく球界に現れたスター選手となった。

仰木監督はイチロー選手だけでなく、遊撃手で起用されていた田口壮選手を外野手へコンバート。この配置転換によって田口選手は、日本屈指の外野手に成長、後にメジャーリーグでチャンピオンリングを手にするほどの選手となった。

イチロー選手、田口選手らの活躍もあり、就任1年目のこの年にチームを2位に導いている。

がんばろうKOBEでリーグ優勝

監督就任1年目となった1994年に、2位となった仰木監督率いるオリックス。2年目となる1995年は、波乱のスタートとなった。1月に阪神淡路大震災が起きたのだ。これによって本拠地である神戸は、壊滅的な打撃を受けた。この事態を受け、オリックスは「がんばろうKOBE」をスローガンとし、被災者の希望になるべくチームを率いた。

その結果、イチロー選手の2年連続首位打者などの活躍で、オリックスとなってから初めてのリーグ優勝に輝く。仰木監督は近鉄時代と同じく、就任2年目にオリックスを優勝に導いた。

日本シリーズで戦うことになるヤクルトの野村克也監督は、シリーズ開始前に「イチローは内角高めに弱い」と「口撃」。この言葉を印象づけられたためか、イチロー選手は打率.263(19打数5安打)と抑え込まれてしまう。イチロー選手を封じられたオリックスは、ヤクルトに敗れ日本シリーズ制覇とはならなかった。

あと一歩で日本一を逃した仰木監督は、翌1996年に2年連続でリーグ優勝を果たす。日本シリーズでは、近鉄時代に苦杯を舐めた読売ジャイアンツと対戦し、4勝1敗で初の日本一を達成した。

以降も2001年までオリックスの監督を務め、5割を割ったのは1シーズンのみと好成績を残している。

2度目のオリックス監督時代

オリックスの監督退任後は、解説者などで活躍していた仰木氏。2004年に競技者表彰として野球殿堂入りも果たしている。

仰木氏は球界再編騒動が起こった2004年オフに、近鉄とオリックスの合併球団となるオリックス・バファローズから監督の打診を受け受諾。当時、球界で最高齢となる70歳での監督就任だった。

3年連続最下位に沈んでいたオリックスのチーム状態は良くなかったが、仰木監督の指導もあって4位へと順位を上げることに成功。しかし、仰木監督自身の体調が優れず、シーズン中からもその様子は確認されていた。結局、シーズン最後まで指揮を執ったものの、高齢と体調不良を理由に辞任し、ユニフォーム生活に別れを告げた。

その後容態が悪化し、シーズン終了から2ヶ月足らずの12月15日に肺がんにより死去。人生の最後まで、野球と共に生きた仰木監督であった。

現在、仰木監督の教え子でもある近鉄とオリックスのメンバー達が、プロ野球界で監督やコーチとして活躍しており、梨田昌孝氏もその一人だ。また、イチロー選手も、仰木監督がメジャーリーグに送り出す決断をしなかったら、ポスティングは実現していなかったことになり、恩人とも言える。

すでに亡くなっている仰木監督だが、球界には多くの後継者を残しており、その系譜が途切れることはないだろう。

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