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中日移籍の涌井秀章にエースナンバーの背番号20、生え抜き以外で背負ったのは?

2022 11/23 06:00SPAIA編集部
中日に移籍が決まった涌井秀章,ⒸSPAIA
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柳裕也でも高橋宏斗でもなく…期待の表れ

阿部寿樹内野手(32)との交換トレードで楽天から中日に移籍することになった涌井秀章投手(36)の背番号が「20」に決まった。

トレードされた選手の背番号が発表されるのは当たり前だが、NPBで公示された背番号がちょっとした話題になったのは「20」が中日のエースナンバーだからだ。これまで杉下茂や権藤博、星野仙一らが受け継いできた重みのある背番号。通算154勝右腕に与えられたのは期待の表れに他ならない。

2014年ドラフト1位で入団して背番号20をつけたたものの、1勝も挙げられずに引退した野村亮介以降、2018年から5シーズンは空き番となっていた。後継者候補には、2021年に最優秀防御率と最多奪三振に輝いた柳裕也か、成長著しい20歳・高橋宏斗ら生え抜き右腕が予想されたが、実績では文句なしの36歳が来季から背負う。

杉下茂、権藤博、星野仙一、小松辰雄

歴代の背番号20を振り返ると、そうそうたる名前が並ぶ。「フォークボールの神様」と呼ばれた杉下茂は1949年から60年まで「20」を背負い、1961年は大毎に移籍して通算215勝を挙げた。

その後を受け継いだのが1961年に入団した権藤博。「権藤、権藤、雨、権藤」とまで言われるほどの連投に次ぐ連投で、1年目から69試合に登板して35勝で最多勝、防御率1.70で最優秀防御率に輝いた。

翌1962年も30勝を挙げて2年連続最多勝。その後は無理が祟って故障したため1965年から野手転向したが、通算82勝を挙げた右腕は間違いなく球団史に名を残した。

星野仙一は明治大から入団して2年間は「22」だったが、3年目の1971年から「20」に変更。1982年に引退するまで通算146勝をマークした。

星野の引退後、1シーズンおいて1984年から受け継いだのが小松辰雄。「スピードガンの申し子」と呼ばれた剛速球で1985年と1987年の2度、最多勝に輝くなど通算122勝50セーブをマークした。

生え抜き以外は宣銅烈、川崎憲次郎ら3人のみ

剛腕の系譜はまだまだ続く。小松の引退後、1996年から4年間背負ったのが宣銅烈だ。韓国球界で146勝132セーブを挙げ、来日1年目こそ苦しんだものの、2年目の1997年に38セーブを挙げてタイトル獲得。NPB通算10勝4敗98セーブの成績を残した。

宣銅烈の後、1シーズンおいて継承したのが川崎憲次郎。ヤクルトからFA宣言した「巨人キラー」に星野仙一監督がラブコールを送って2001年から4年間在籍したが、ケガのためまさかの未勝利に終わった。

2005年から受け継いだのが、北九州市立大から2004年ドラフト2位で入団した中田賢一。2013年オフにFA宣言してソフトバンクに移籍するまで「20」を背負い、阪神移籍後の2021年に引退するまで通算100勝を挙げた。

球団史を振り返ると、生え抜き以外で背番号20をつけたのは戦前に巨人から移籍した岩本章も含め、宣銅烈、川崎憲次郎の計3人のみ。岩本は外野手だったが、いずれも大きな期待を背負って移籍してきた選手だ。

涌井は通算200勝まで46勝としており、年齢的にもギリギリ届く可能性がある。2022年は最下位に終わった中日。阿部を放出してまで獲得したベテラン右腕にかかる期待は大きい。

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