巨人が8連覇した1972年
夏の甲子園で津久見(大分)が優勝した1972年。プロ野球では巨人が8連覇を果たし、日本シリーズでは、前年に下した西本幸雄監督率いる阪急を返り討ちにした。
同年のドラフト会議は日本シリーズ終了後の11月21日に開催された。当時は予備抽選で指名順を決定し、奇数順位は予備抽選の1番から12番へ、逆に偶数順位は12番から指名していく変則ウェーバー方式。現在のように重複すれば抽選というルールではないため、予備抽選による運、不運が大きかった。
予備抽選の結果は大洋―中日―東映―近鉄―阪神―太平洋―阪急―広島―ヤクルト―南海―巨人―ロッテに決定。東映は翌1973年1月、日拓ホームに球団を譲渡したため最後のドラフトとなった。

各球団1巡目指名選手のプロ入り後の成績を振り返る。
大洋は長崎慶一、中日は鈴木孝政を1位指名
大洋は法政大の長崎慶一を1位指名した。 北陽高時代に阪神から8位指名を受けたが入団を拒否して大学に進学。東京六大学リーグ通算93安打、8本塁打を放ち、プロ入り後は9年連続2桁本塁打をマークするなど主力として活躍した。1982年に首位打者に輝き、1985年には池内豊との交換トレードで阪神に移籍して日本一に貢献。通算1474試合出場、1168安打、146本塁打の成績を残した。
中日は成東高の鈴木孝政を指名した。切れ味抜群のストレートでキャリア前半はリリーフ、後半は先発として活躍。1976年に最優秀防御率、1975年に最多セーブ、1976年と77年には最優秀救援投手に輝くなど、通算124勝94敗96セーブをマーク。引退後は中日でコーチや二軍監督などを務めた。
東映は日本楽器の新美敏を指名した。PL学園時代に夏の甲子園で準優勝した右腕は都市対抗などで活躍し、東映から球団買収した日拓ホームに入団。1年目に初登板初完封をマークするなど54試合に登板して12勝を挙げ、新人王に輝いた。1977年に佐伯和司、宮本幸信、久保俊巳との4対3の交換トレードで鵜飼克雄、皆川康夫、内田順三とともに広島へ移籍。275試合、35勝52敗6セーブの成績を残し、1987年に引退した。
近鉄は日大桜丘高の仲根正広を指名。「ジャンボ仲根」と呼ばれた長身右腕は1972年春のセンバツで優勝し、プロ1年目から25試合に登板して1勝を挙げたが、2年目以降は登板機会が激減したため1979年に野手転向した。1983年に14本塁打を放つなど活躍し、1988年に現役を引退。投手としては30試合登板で2勝8敗、野手としては347試合出場で189安打、36本塁打を記録した。
阪神は五月女豊、広島は池谷公二郎
阪神は日本石油の五月女豊を1位指名した。阪神では1勝に終わったが、1975年オフに片岡新之介と交換トレードで太平洋に移籍すると主に中継ぎとして活躍。1982年に移籍した大洋では同年に58試合登板するなど重宝され、通算235試合登板で18勝17敗1セーブの成績を残した。
太平洋は八代第一高の左腕・中島弘美を指名。中九州大会で全国制覇した津久見に敗れて甲子園には出られなかったものの、将来性の高い左腕として期待された。しかし、1年目に3試合登板して1勝を挙げたのみで1978年に引退した。
阪急は足利工高の石田真を指名。速球派右腕として、同じ栃木で1学年下の作新学院・江川卓と比較されることも多かったが、プロでは2試合に登板しただけで1980年に引退した。
広島は日本楽器の池谷公二郎を指名。都市対抗優勝に貢献した右腕は、同じ日本楽器の新美敏が東映から1位指名を受けたため1年間チームに残り、翌1973年のシーズン終了後に入団した。1975年には18勝を挙げて初優勝に貢献し、1976年には20勝で最多勝のタイトルを獲得。103勝84敗10セーブをマークして1985年に引退した。
真弓明信は太平洋3位、ヤクルト4位の山口高志は入団拒否
ヤクルトはいすゞ自動車の永尾泰憲を指名した。前年ドラフトでも西鉄から3位指名されながら入団拒否し、2年越しのプロ入り。1978年オフに神部年男、佐藤竹秀、寺田吉孝との3対2の交換トレードでチャーリー・マニエルとともに近鉄へ移籍し、リーグ連覇に貢献した。1982年に金銭トレードで移籍した阪神では主に代打で活躍。通算1114試合出場、610安打、23本塁打の成績を残し、引退後は阪神でコーチやスカウトを務めた。
南海は都市対抗で活躍した東洋紡岩国の左腕・石川勝正を指名したが入団拒否。同年の南海は三菱重工三原・簑田浩二、鞍手高・河合充、愛媛相互銀行・入山功にも拒否され、指名した8選手中、入団したのは4選手だった。
巨人は西京商高・中井康之を指名。投手としては一軍登板のないまま1978年に野手転向し、1979年に初打席初本塁打を放つなど92試合に出場した。1984年に引退するまで通算390試合出場で39安打、3本塁打を記録した。
ロッテは法政大・伊達泰司を指名した。大学時代は大洋から1位指名された長崎慶一と3、4番を組み、日米大学野球の日本代表にも選出。俊足強打に期待は高かったがプロでは大成せず、通算23試合に出場したのみで、ヤクルト移籍後の1977年にユニフォームを脱いだ。
2位以下では、新日鉄八幡・有田修三(近鉄2位)、藤沢商高・田代富雄(大洋3位)、電電九州・真弓明信(太平洋3位)らがプロ入り。同年ドラフトの目玉と見られていた関西大の剛腕・山口高志は当初からプロ入り拒否の姿勢を示しており、ヤクルトが4位で強行指名したものの松下電器に入社した。2年後に阪急から1位指名されてプロ入りしている。
【関連記事】
・空前の大豊作だった1968年ドラフト会議の答え合わせ、7人が名球会入り
・篠塚利夫が巨人入りした1975年ドラフトの答え合わせ、一番出世は?
・岡田彰布に6球団競合した1979年ドラフトの答え合わせ、外れ1位の成績は?