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戦後初、捕手唯一の三冠王・野村克也 ただ1度のチャンス逃さず打ち立てた金字塔【プロ野球三冠王列伝】

2022 9/22 06:00広尾晃
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「期するところがあった」野村克也を発奮させた減俸

ヤクルト、村上宗隆の三冠王が現実味を帯びる中、過去の三冠王について振り返るシリーズ。2回目は1965年に戦後初の三冠王となった野村克也(南海)だ。

この年の野村には「期するところがあった」とされる。1961年から64年まで4年連続本塁打王、62年から64年まで3年連続打点王と、62年から64年まで3年連続で二冠王に輝き、パ・リーグ最強打者の名をほしいままにしていた。だが、1964年オフの契約更改で少額ではあるが年俸を下げられたのだという。1964年は本塁打、打点ともに前年よりも「数字が下がった」ことが理由だとされる。

今ならタイトルを獲得して年俸ダウンは考えられないが、選手よりも球団のステータスが上だった当時は、そういう査定もまかり通っていたのだ。もともとスロースターターで春先は調子が上がらないことが多い野村は、1965年も4月末の時点では打率.263、4本塁打だった。

これに対し、開幕早々飛び出したのが阪急2年目の外国人のダリル・スペンサーだった。MLBでもジャイアンツなどで正二塁手だったスペンサーは1年目からベストナインに選出され、この年は開幕から絶好調。6月末時点では打率(.340)本塁打(21本)で1位、打点は45で野村と2点差の2位。極点なクローズドスタンスだったが、投手が外角に投げてくると思い切り体を開き、長い腕を伸ばして痛打した。

東京の小山正明は「投手は外角に投げたくなるが、それが彼の付け目」と語った。下手投げには弱かったが、それ以外に穴がないスペンサーの活躍にメディアは「戦後初の三冠王か?」と書き始めた。

一方の野村は7月に入ると猛烈に打ち始め、7月25日にスペンサーを抜いて打率.339で1位に。スペンサーの打率はそのころから下落したが、本塁打は8月7日の東京戦で2本打って31本、野村は24本で7本の差が開いていた。そしてこの時期からパの各投手はスペンサーとの勝負を避けるようになり、8月14日から15日にかけてはなんと8連続四球を記録している。

この四球攻めに調子を落としたスペンサーは、8月31日の南海戦で34号を打ってから25日間も本塁打が出なかった。その間に7本塁打を打った野村は9月7日に35号を打ち、スペンサーを抜いた。しかし、9月後半からスペンサーは復活して4本塁打。10月3日時点で野村40本、スペンサー38本と2本差まで迫った。

野村の打率と打点は既に2位以下を引き離していたため、ファンは野村がホームラン王もとって三冠王なるか、それともスペンサーが意地を見せて本塁打王を取るかと固唾をのんで見ていた。だが、10月5日にスペンサーは交通事故に巻き込まれ右足を骨折。熾烈なホームランダービーは突如終焉を迎えた。

最初で最後の首位打者となった1965年

1965年パ・リーグ打撃成績上位3人,ⒸSPAIA


この年の野村はスペンサーが所属する阪急の投手をよく打ち込んだ。梶本隆夫から13打数7安打の打率.538、2本塁打、米田哲也から23打数7安打の打率.304、0本塁打、足立光宏には17打数5安打の打率.294、0本塁打。また、前年まで苦手だった東京の小山正明からは最多の6本塁打を記録している。

前年の野村は2ストライクと追い込まれると.174と打てなくなったが、この年は2ストライク後に.284としぶとさを増していた。本塁打と打点だけでなく、首位打者もとりたいという意欲が打撃を変えたのかもしれない。

スペンサーはリーグ最多の79四球だが敬遠は9、野村は60四球だが敬遠は16。勝負どころでは勝負を避けられた野村だったが、そうでない状況では勝負されることも多かった。これは野村の後ろを打つケント・ハドリも好調で、簡単に歩かせられない状況だったことも大きい。野村とハドリのアベックホームランはこの年6本を記録している。

三冠王が確定した野村は「スペンサーには悪いが、あの事故を聞いて、三冠王になれると思った。つくづく自分は運の強い男だと思う」と正直な気持ちを述べている。

ちなみに、1965年の南海は開幕から圧倒的な強さを見せ、2位東映に12差をつけて優勝。当然ながら野村がMVPに選ばれた。

野村は本塁打王を9回、打点王を7回獲得しているが首位打者は1回だけ。数少ないチャンスをものにしたことが分かる。通算打率は.277だが、これは三冠王を取った7人の打者では中島治康の.270に次ぐ低打率。また、捕手での三冠王は日米通じて野村ただ一人。1965年も136試合のうち133試合でマスクを被っている。

戦後「初」、フルシーズンで「初」、捕手で「初」。1965年野村の三冠王は、色々な意味で「金字塔」と言える大記録だったのだ。

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