「期するところがあった」野村克也を発奮させた減俸
ヤクルト、村上宗隆の三冠王が現実味を帯びる中、過去の三冠王について振り返るシリーズ。2回目は1965年に戦後初の三冠王となった野村克也(南海)だ。
この年の野村には「期するところがあった」とされる。1961年から64年まで4年連続本塁打王、62年から64年まで3年連続打点王と、62年から64年まで3年連続で二冠王に輝き、パ・リーグ最強打者の名をほしいままにしていた。だが、1964年オフの契約更改で少額ではあるが年俸を下げられたのだという。1964年は本塁打、打点ともに前年よりも「数字が下がった」ことが理由だとされる。
今ならタイトルを獲得して年俸ダウンは考えられないが、選手よりも球団のステータスが上だった当時は、そういう査定もまかり通っていたのだ。もともとスロースターターで春先は調子が上がらないことが多い野村は、1965年も4月末の時点では打率.263、4本塁打だった。
これに対し、開幕早々飛び出したのが阪急2年目の外国人のダリル・スペンサーだった。MLBでもジャイアンツなどで正二塁手だったスペンサーは1年目からベストナインに選出され、この年は開幕から絶好調。6月末時点では打率(.340)本塁打(21本)で1位、打点は45で野村と2点差の2位。極点なクローズドスタンスだったが、投手が外角に投げてくると思い切り体を開き、長い腕を伸ばして痛打した。
東京の小山正明は「投手は外角に投げたくなるが、それが彼の付け目」と語った。下手投げには弱かったが、それ以外に穴がないスペンサーの活躍にメディアは「戦後初の三冠王か?」と書き始めた。
一方の野村は7月に入ると猛烈に打ち始め、7月25日にスペンサーを抜いて打率.339で1位に。スペンサーの打率はそのころから下落したが、本塁打は8月7日の東京戦で2本打って31本、野村は24本で7本の差が開いていた。そしてこの時期からパの各投手はスペンサーとの勝負を避けるようになり、8月14日から15日にかけてはなんと8連続四球を記録している。
この四球攻めに調子を落としたスペンサーは、8月31日の南海戦で34号を打ってから25日間も本塁打が出なかった。その間に7本塁打を打った野村は9月7日に35号を打ち、スペンサーを抜いた。しかし、9月後半からスペンサーは復活して4本塁打。10月3日時点で野村40本、スペンサー38本と2本差まで迫った。
野村の打率と打点は既に2位以下を引き離していたため、ファンは野村がホームラン王もとって三冠王なるか、それともスペンサーが意地を見せて本塁打王を取るかと固唾をのんで見ていた。だが、10月5日にスペンサーは交通事故に巻き込まれ右足を骨折。熾烈なホームランダービーは突如終焉を迎えた。