打撃とともに注目された外野守備
日本ハムのBIGBOSSこと新庄剛志監督は、1972年1月生まれ。2006年限りで現役を引退しているため、若い世代は新庄の現役時代を知らない。ここでは新庄監督がどんな選手だったのかを紹介していこう。
野茂英雄が8球団から1位指名を受けて近鉄に入団した1989年、新庄は西日本短大附高からドラフト5位で阪神に入団した。同期の高卒組には、4位で広島に入団した前田智徳(熊本工)や2位で日ハムに入団した岩本勉(阪南大高)がいる。
外野手として入団したが、肩の強さが群を抜いていたので阪神入団後は遊撃手に転向する。しかし1992年、日本石油からドラフト2位で入団した久慈照嘉が新人ながら遊撃を守り、規定打席にも達する活躍で新人王にも選ばれた。これにより、新庄は再び外野手へ転向する。
1993年に初めて規定打席に到達し、23本塁打、62打点を記録。ベストナインにも選出された。打撃とともに注目されたのは外野守備だった。いきなりセ・リーグの最多補殺を記録したからだ。
FAでMLBに移籍した最初の野手
セ・リーグでは新庄の13補殺はダントツ。ちなみに、パ・リーグではダイエーの佐々木誠が同じ13補殺を記録している。
通常、補殺は右翼手が多い傾向にあるが、新庄は中堅手だった。新庄は内野手のように機敏に送球していたため、本塁だけでなく二塁でも走者を刺していた。そして、守備範囲の広さを示すRFG(レンジファクターG、補殺+刺殺を試合数で割った数値)もリーグ1位で、ゴールデングラブも受賞している。
1992年に亀山努とともに「亀新フィーバー」を巻き起こした新庄は、アイドル的な人気を博しており、当時阪神の投手だった野田浩司は「新幹線でもファンが客席まで押しかけてきた。何事が起ったかと思った」と語っている。
1994年もゴールデングラブを受賞し、一躍スター選手の仲間入りを果たした新庄だったが、1995年は故障により成績が低下。オフには一時「引退宣言」をして世間を騒がせたが、宣言を撤回し、阪神の主力選手として以後も活躍した。
その後2000年オフにFA宣言し、MLBのニューヨーク・メッツに移籍が決まった。同時期に、オリックスのイチローもシアトル・マリナーズへ移籍することになったが、イチローはポスティングによる移籍だったため、新庄は”FAでMLBに移籍した最初の野手”となった。
メッツでも新庄は外野手として活躍。中堅、右翼、左翼、すべてのポジションを守った。ちなみに2001年の正左翼手だったのは、のちにロッテへ入団するベニー・アグバヤニだった。
MLBでも通用した守備力とファンを引き付けたパフォーマンス
新庄はMLB移籍初年度にナ・リーグ5位タイの12補殺を記録し、走者にとって警戒すべき外野手であることを知らしめた。守備範囲を示すRF9(9イニング当たりの補殺、刺殺数)は、100試合以上外野を守った選手でリーグ5位。新庄の外野守備はMLBでも十分通用することが証明された。
ちなみに、上記表で新庄と同じ12補殺を記録したアレックス・オチョアは、2003年に中日に移籍している。
2002年には、サンフランシスコ・ジャイアンツに移籍。バリー・ボンズのチームメイトとなり、日本人として初めてワールドシリーズに出場、6打数1安打1犠打を記録した。
2003年は再びメッツでプレーし、2004年にNPBに復帰。本拠地を北海道に移した日本ハムに入団し、登録名をSHINJOとした。
日本ハムは北海道を本拠地とする初めてのプロ野球チームだったが、新庄は様々なパフォーマンスを行ってチームを鼓舞し、北海道のファンを引き付けた。3年目の2006年のシーズン中に引退を宣言したが、この年の日本シリーズでは17打数6安打、打率.353と活躍。北海道移転後、初の日本一に貢献した。
打者としては早打ちで四球が少なく、確実性があったとは言えなかった。打率3割は一度も記録していない。また打撃タイトルもなかった。しかし守備は抜群で、ベストナイン3回、ゴールデングラブは10回受賞している。
引退後は野球界を離れ、海外での生活が長かったが、一昨年、NPBの12球団合同トライアウトに参加、昨年オフには日本ハムの監督に就任。引退後も「サプライズ」を振りまいている。
今季は戦力的にも厳しい日本ハムだが、新庄BIGBOSSは今後どんな采配を見せてくれるのだろうか。
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