新ユニホーム披露会見で赤いリストバンド
日本ハムの“BIG BOSS”こと新庄剛志監督(49)が21日、就任後初めて「背番号1」のユニホーム姿を披露した。
札幌ドームでの新ユニホームの発表記者会見。北海道の美しい空と海をイメージしたファイターズブルーを基調としたチーム11年ぶりの新装デザインに、指揮官は「正直言うと自分のイメージした感じのユニホームではなかった。来年また変えるところは変えたい」など新庄節で笑いを誘っていたが、目を引いたのが両手に巻かれていた赤いリストバンドだった。
新庄監督がプロ入りした阪神時代からずっとトレードマークにしてきた赤はここでも健在…。「闘争心が出るのがこの色。一番好きなんです」がそもそもの理由だが、どのチームに在籍してもこの色への愛着だけは変えていない。
9日の新人自主トレを初視察した際も「楽しみなイベントとなると自然とポイントポイントが赤になってしまう」と黒いコートの中に真っ赤なセーターを着込んで登場したばかり。この日の会見でも「僕といったら、赤のイメージ。自分に色のイメージをつけることはすごく大事なんです。そういう選手が増えてくれたらいい」と改めて“選手カラー”の重要性を説いていたが、確かに若き日の阪神時代、新庄監督の赤に対するこだわりは相当だった。
「大切な人が球場に見に来ている」
面白いエピソードを思い出した。新庄監督といえば赤なのだが、阪神時代の1992年にブレークして以降は、気分屋でもあったため赤以外にも白、黒、紫まで手を出して自らの“カラフル化”に挑戦していた。
打ったり打てなかったりと好不調もあって試行錯誤する気持ちは理解できる。それでも新庄監督らしいと“感心”させられたのが赤色リストバンドで臨んだ際の勝負強さだった。
赤い時は逆転のホームランを放つなど大活躍。それに気付いて当時の本人に理由を聞いてみると「赤をするときは僕の大切な人が球場に見に来ているときなんです。だからいいところを見せとかないといけない。だから打てるんですよ」と嬉しそうに明かしたのだった。
何やら聞き捨てならない発言…。その“大切な人”というのは当時、交際中だった人気モデルでタレントの大河内志保さんのことだった。
2人は新庄監督がFAで米ニューヨーク・メッツ入りした2000年に結婚し、7年後に離婚することになるが、当時の新庄監督はそんなノロケ話をする必要もないのに、赤いリストバンドを恋人とのコミュニケーションツールにして自らを鼓舞していたのだった。
気持ち一つで切り替わる新庄監督のゲンキンぶりに、当時の中村勝広監督は「それなら毎日、赤を付けてくれ!」と懇願したほどだったが、今振り返ると大したものと言わざるを得ない。
まだ21歳だった当時の新庄監督の女性人気はすさまじく、2人の交際を妬んだファンから新庄監督の故郷・福岡の自宅にまで「別れろ!」などといった嫌がらせの電話が殺到。大事な両親を困惑させた。
当時はSNSもなく、プライバシーへの介入がまだ緩かった時代。今では考えられない話だろうが、それでも新庄は「怒ったところで仕方ない。野球で結果を出すしかないんです」と恋人の前で結果の出る赤いリストバンドを付けて連日プレーを断行してきたのだ。
自分の「カラー」にこだわり
それだけに新庄監督は色にうるさいのかもしれない。日本ハムの選手時代、弟分の森本稀哲に「顔を見た瞬間、緑となった」とイメージカラーにさせたことは有名な話。
今回、監督に就任してからはオレンジを選手カラーにしている人気キャラの杉谷拳士内野手(30)に「今はオレンジ色が勝っているからやめさせようかな」と発言したほどだ。もちろん、期待の裏返しでもあるが、自分が決めた色にはまさに野球人生をかけてトレードマークにしてほしい、との強い思いがあるのだろう。
軽いようで軽くはない、根は昭和スタイルの新庄監督。赤を定着させた“BIG BOSS”に続く新たなスター選手が誕生するか。こちらも色めき立って仕方ない。
《ライタープロフィール》
岩崎正範(いわさき・まさのり)京都生まれ。1992年から2021年6月まで東京スポーツ新聞社に勤務。プロ野球の阪神タイガースを中心に読売ジャイアンツ、オリックスバファローズ、ニューヨークヤンキースなどを取材。現在はフリーライター。
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