試合数、安打、二塁打でPL出身最多
現中日ドラゴンズ監督の立浪和義は、そのスリムな外見から、シャープな名内野手と言う印象がある。だが、数字的に見れば、内野手と言う激務をこなしながら、故障、怪我をものともしないタフな名選手だった。
立浪はPL学園では桑田、清原の「KKコンビ」の2学年下にあたる。同級生の片岡篤史(のち日本ハム、阪神)、野村弘樹(横浜)、橋本清(巨人)、1学年下の宮本慎也(ヤクルト)らとともに、1987年にはKKコンビでさえ成し遂げていない甲子園春夏連覇を達成。立浪は主将、遊撃手としてチームを引っ張り、1987年ドラフト1位で中日に入団した。
現在、野球部は休部となっているが、PL学園は高校野球史上屈指の「プロ野球選手輩出校」だ。その並みいるPL学園出身選手の中で、立浪は最多安打を誇っている。
2000安打以上が6人もいるという顔ぶれも壮観だが、立浪は安打数だけでなく試合数、二塁打数でも1位だ。なお、日米通算にすると松井稼頭央がMLBでの615安打を加えて2705安打となり、立浪を抜く。また現役の福留孝介もMLBで498安打しているので2450安打となり、今後立浪を抜く可能性がある。
本塁打、打点は清原和博が、盗塁は松井稼頭央が1位となっている。
通算487二塁打は歴代1位
立浪は中日での通算安打数でも1位だ。
中日は1936年、プロ野球草創期に設立され、86年の伝統を有する球団の一つ。その歴史の中で、NPB屈指の名二塁手と言われた高木守道、首位打者2回の谷沢健一など名選手を多数輩出してきたが、立浪は数字的にそれらの選手を上回っている。安打数だけでなく、試合数、打点でも中日の1位である。
本塁打は宇野勝が1位、盗塁は荒木雅博が1位となっている。なお、立浪から6位の中暁生まで、そして現役の大島洋平は、ドラゴンズ以外のユニフォームを着なかったフランチャイズプレイヤーだ。
立浪の通算二塁打数は487本。これはNPB史上1位。二塁打はさく越え本塁打を除くインフィールドに飛ぶ打球では「最も当たりが良い打球」とされ、中距離打者の指標ともされる。通算二塁打数1位ということは「日本一の中距離打者」と言っても差し支えないだろう。
小柄な身体でどんな役割でもこなした名選手
身長173㎝体重70㎏、プロ野球選手としてはかなり小柄な部類に入るほっそりとした選手だった。入団当初は「こんなに小さな体でプロに通用するのか」と言われたが、星野仙一監督はその素質を認めて、正遊撃手の宇野勝を二塁にコンバート。立浪を入団1年目の開幕から遊撃手で起用した。
この年新人王、ゴールデングラブを受賞し、3年目の1990年には打率3割をマーク。1991年には初めてフル出場を果たすが、翌年星野監督が退任し、高木守道監督になると自ら申し出て二塁手に転向した。入団直後に痛めた右肩の調子が思わしくなく、送球が不安定だったからだというが、定位置を捨ててコンバートを申し出るのは異例のことだった。
立浪は二塁手として1995年から3年連続でゴールデングラブを受賞。96年には打率3位になり初のベストナインにも選ばれる。この時期、中日の遊撃手は種田仁、小森哲也、鳥越裕介らが守り固定できていなかったが、立浪が「内野の要」としてチームを引っ張った。
2002年には三塁手に転向。この年キャリアハイの92打点を挙げている。山田久志監督から落合博満監督へ、中日は黄金期を迎えつつあったが、ベテランになった立浪は中軸を打つこともあれば、上位や下位を打つこともあり、どの打順でもチームが求める打撃をすることができた。
キャリア最終の3年は代打稼業となったが、2007年は交流戦を除きすべて代打で出場。代打で75打数23安打2本塁打27打点、打率.307、出塁率.409を記録した。左打者でありながら対左投手打率は.314をマーク。試合終盤に立浪がバットを振りながら出てくると、相手ベンチが警戒の色を示した。
40歳になる2009年限りで引退。この年には一塁も1試合だけだが守って7つのアウトを処理している。主要タイトルはなし。ベストナイン2回、ゴールデングラブ4回と「賞」には恵まれなかったが、持久力と総合力で一流選手になったと言えよう。2019年には野球殿堂入りしている。
引退後は一時期、侍ジャパンの打撃コーチを務めただけでユニフォームには袖を通さず。解説者として外側から野球界を見てきたが、引退から13年、満を持しての監督就任となった。
どんなポジションでも、どんな役割でもチームにとって最大限の貢献をしてきた立浪和義。課題は「立浪2世」を作ることではないだろうか。
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