1994年5月18日の広島戦(福岡ドーム)で快挙
ロッテ・佐々木朗希投手が4月10日のオリックス戦(ZOZOマリン)で令和初、28年ぶり史上16人目となる完全試合を達成した。28年前に史上15人目の達成者となったのが、巨人・槙原寛己だ。1994年5月18日の広島戦、場所は開場2年目を迎えた福岡ドーム(現ペイペイドーム)だった。
プロ3年目、20歳の佐々木に対し、12年目、30歳になっていた槙原は140キロ台中盤の直球、大きく曲がるスライダー、鋭く落ちるフォークを駆使して赤ヘル打線を手玉に取った。27 人目の打者は途中出場の御船英之。カウント1−1から投じた直球で一邪飛に仕留めると、マウンド付近に歓喜の輪ができた。
槙原は試合後「3回くらいから(完全試合を)意識していた」「5回ごろは完全にその気になっていた」などと振り返ったが、記者席では7回になっても「そろそろ打たれる」といった声が多かった。荒れ球のイメージもあったし、何しろ中2日でのマウンドだったからだ。
3日前の5月15日の横浜戦(横浜スタジアム)に先発し、雨のため2回ノーゲーム。それでも実際に投げたのだから、通常通りの間隔を開けるのが普通だ。
しかし、槙原は桑田真澄や斎藤雅樹と比べて、良くも悪くも大ざっぱな性格。横浜戦が「いい感じで投げられた」こともあり、喜んで福岡ドームのマウンドへ。中2日の疲れを感じさせず快挙を達成してみせた。
1993年オフ、移籍前提にFA宣言
いずれにせよ横浜戦が成立していれば、広島戦の先発はなかったはずだが、「If」はもうひとつある。槙原は移籍の可能性があったのだ。
前年(93年)、斎藤が9勝(11敗)、桑田が8勝(15敗)と成績を落とす中、キャリアハイの13勝(5敗)をマーク。長嶋茂雄監督復帰1年目のチームを支えたが、オフに騒動が起こる。
この年のオフからFA制度が導入され、巨人では早くから中日・落合博満の獲得、同じ一塁手の駒田徳広が移籍を目指すと見られていた。
そんな中、槙原が動いた。好成績にもかかわらず、フロントが慰留の動きを全く見せてくれないことに不信感を覚え、移籍を前提にFA宣言したのだ。実際、複数球団から誘いがあり、中でも地元・愛知の中日は熱心だった。
槙原のFA宣言は保科昭彦球団代表が「まさか…」と絶句したほど、巨人フロントにとっては寝耳に水の出来事。駒田はやむを得ないとしても、そのほかに巨人を出て行く選手などいないとタカをくくっていたわけだ。
慌てて交渉するが、槙原にも意地があり、不調に終わる。そこでフロントは宮崎・秋季キャンプ中の長嶋監督に泣きついた。
バラの花束持参で説得した長嶋監督の熱意に翻意
長嶋監督は緊急帰京すると、連日の直電で槙原を説得。すると夫人が長嶋監督の熱意に心を打たれて「巨人に残った方がいい」と背中を押した。
そして11月21日、長嶋監督が「力を貸してくれた奥さんにもお礼がしたいから」とバラの花束を持って槙原の自宅を訪れ、最終的に残留が決まった。
残留を決めた槙原は5000万円近いアップとなる年俸1億2000万円、功労金4000万円(いずれも推定)といった好条件を勝ち取ったが、長嶋監督による自宅訪問には恐縮しきり。恩返しの意味でも94年シーズンにかける思いは誰よりも強く、完全試合を達成し、長嶋監督に熱く抱擁された際は子供のような笑顔を見せた。もし移籍していたら、もし中2日で投げていなかったら、こんなシーンは見られなかったはずだ。
《ライタープロフィール》
松下知生(まつした・ともお)愛知県出身。1988年4月に東京スポーツ新聞社に入社し、プロ野球担当として長く読売ジャイアンツを取材。デスクなどを務めた後、2021年6月に退社。現在はフリーライター。
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