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故・野村克也氏、2月11日の命日に捧ぐ追悼エピソード ノムさんが鍛えられた「南海3悪人」

2022 2/11 06:00山田ジョーンズ
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「南海3悪人」に鍛えられた野村監督

故・野村克也氏の命日は2020年2月11日、天国に旅立って、今日でちょうど2年となる。追悼の意を込めて、筆者が長年取材してきた中で見聞きした、野村監督にまつわるエピソードを紹介する。

野村監督が見初めて東映(現・日本ハム)から移籍させたのが、未勝利だった江本孟紀。プロ2年目・南海(現・ソフトバンク)1年目に16勝を挙げ、以来4年連続2ケタ勝利。一躍、南海のエースとなる。

「おいエモ。なんでお前ちゃんとバント処理をしないんや」
「足が長くて(身長188㎝)、打球を取りにかがむまで時間がかかるんです」

当時から「ああ言えばこういう」性格だった。のちに「ああ言えば交遊録」という本を上梓している。「ベンチがアホやから野球がでけへん」と、阪神時代に言い放った素地があった。野村が長髪を禁止したのに、長いもみあげ、長髪で反抗(?)した。

江本の交換トレードの相手が江夏豊(阪神)だった。野村が「リリーフ投手として球界に革命を起こしてみろ」という口説き文句でストッパーに転向させたのは有名な話だ。しかし「先発完投してこそ一流投手だ」の思いが強く、当初は説得する野村から、実に1か月も逃げ回っていた。

「ユタカ、麻雀ばかりやっていないで、オレの話を聞け」
「オレは麻雀の牌(パイ)より重い物は持ったことがないんだ」

言うに事欠いて、そんな憎まれ口まで叩いたそうだ。しかし、その後の「江夏の21球」をはじめ、ストッパーのパイオニアとなったのはご存じの通り。

広島は昭和50年代、10年間で4度優勝。古葉竹識監督、ブレイザーコーチ、江夏(79年MVP)、福士明夫(80年15勝)がノムラ南海から広島に移籍。「広島の第1期黄金時代」イコール「ノムラ野球」だったのだ。

門田博光は、王貞治(巨人)通算868本塁打・野村克也(南海ほか)657本塁打に続く日本歴代3位の567本塁打を放った。身長170㎝と小柄なのに本塁打ばかり狙って、フルスイングした。野村がたしなめても聞く耳を持たない門田を、オープン戦で王貞治に会わせる。

「ワンちゃん(王)はホームランを狙って打っているの?」
「そんなわけありません。ヒットの延長がホームランですよ。ノムさんこそ狙っているの?」
「この門田が言っても聞かないんだよ。ほら門田、ワンちゃんだって、ああ言っているぞ」
「嘘だ。野村監督と王さんは口裏を合わせているんだ」
「もう……、勝手にせい!」

野村は試しに真逆のことを言ってみた。「門田、もっとブリブリ振り回していいんだぞ」。へそ曲がりの門田は、以後、コンパクトにバットを振るようになった。

晩年の野村、江本の対談の席のこと。
「江本よ。ワシはお前ら、南海3悪人に監督として鍛えられたよ。それを思えば山﨑武司(楽天)あたりが我がままを言っても可愛いもんだった」
「でも野村監督、鶴岡一人監督に言わせれば「野村、杉浦忠(通算184勝エース)、広瀬叔功(通算596盗塁)が『初代南海3悪人』だったそうですね(笑)」

野村は痛いところを突かれて黙ってしまった。

「大事なところ?」を隠していた野村監督

その昔、早大から茨城県庁を経てロッテ入りした飯島秀雄という選手がいた。1964年東京五輪、68年メキシコ五輪代表。メダル獲得こそならなかったが、「ロケットスタート」の異名を取り、100m10秒1という当時の日本記録保持者だった。しかし、陸上は一斉にスタートを切る。飯島は野球経験がないから、まず盗塁のスタートがうまく切れない。

「相手ベンチからヤジが飛ぶんや。『お~い一塁コーチ、用意ドンって言ってやれよ』ってな。結局3年間で20数盗塁だったかな。ワシだって通算100盗塁以上しておるのに。やはり野球は足が速ければいいってもんじゃないんだな」

筆者は飯島の記録を調べてみた。
「飯島秀雄/初盗塁:投手・合田栄蔵-捕手・野村克也」
野村は大事なところを隠していた。

飯島の話は、筆者が野村の書籍を聞き書きしたときの話だ。野村の著書は実に100冊に及ぶ。

「もうネタがないんや。どうしても以前のネタと重複してしまう」

筆者は野村監督時代の番記者だった。

「調べてきました。こんなこと、ありましたよね」
「よし、それでいこう!」

しかし、そのネタを野村が当時連載していた他社の週刊誌ですべて話してしまう。こちらの書籍が出るのはその3か月後である。そんなことが何度もあった。

「野村監督(楽天監督退任後もそう呼んでいた)、そりゃないっすよ……」

いまでこそ笑い話だが、当時は本当に困ったものだった。しかし、野村監督には「野球のいろは」から教わった。野村克也は選手だけでなく、記者も育てた。

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