プレーヤー表彰で初の候補入り
来年1月14日に発表される野球殿堂のプレーヤー表彰で、日米通算203勝の黒田博樹氏(46)が初めて候補に入った。泥臭く努力を重ね、広島のエース、そしてメジャーでも活躍を続けられた裏には、貪欲な探究心と適応力があった。
1996年に専大からドラフト2位(逆指名)で入団。スターダムに躍り出たのは初タイトルの最多勝に輝いた2005年。直球とカーブ、スライダー、フォークを軸にする、オーソドックスな「本格派」がバージョンアップ。この年に覚えた、速く、小さく曲がる変化球シュートを効果的に使った。
「毎年、毎年、成長しないと、僕のような投手はすぐに打者に対応されてしまうから」
打たれることを恐れ、常に自らに変化を求めていた。野球人生を通じて貫かれていた信念だった。
ブラウン監督の「中4日指令」に適応
翌2006年に就任した外国人監督のマーティー・ブラウン監督との出会いも進化を後押しした。シュートと同じく曲がりが小さいツーシームやカットボールも積極的に投げ始めた。
理由がある。ブラウン監督は開幕から「中4日」登板を先発陣に課したのだ。
黒田は当初、戸惑いを隠さなかった。力いっぱい腕を振る力投型。中4日は想像し難かった。実際、負荷は想像以上のものだった。
「通常の1週間ごとの登板だと、投げた翌日に張りが出て、1日、2日しっかり休んで。また少しずつトレーニングの強度を強めていって、万全の状態で次の登板日を迎える。でも中4日だとあっという間。変えないといけないものがたくさんありすぎて…」
そう言って、苦笑いを浮かべたものだ。ナイターで投げて、中4日でデーゲームも経験した。「実質、中3日半でしょ。朝が来るのが早いし、起きた時にまず、もう2日目か、もう3日目かと思うようになった」。毎日がせわしなく感じた。
それでも、決まった登板日に投げて、結果も出さなければならない。睡眠を最優先せざるを得ない毎日に、家族にも申し訳なさそうにしていた。
メジャーの硬いマウンドに工夫重ねる
少ない球数で務めを果たさなければならない。そのためには、ねじ伏せるのではなく、打たせてとるスタイル。小さな変化球に活路を求めたのは、必然だった。
中4日にチャレンジした2006年、奪三振数は前年の165から144に減らしたが防御率1.85でタイトル獲得。勝率は6割8分4厘(13勝6敗)。勝てる投手へとステップアップした。
言うまでもないが、中4日先発はメジャーの主流。NPB在籍中に、いち早く中4日を経験できたことがメジャーでも先発ローテーションを務めあげられた理由の1つと言える。
適応に成功した部分はほかにもある。例えば、マウンド。メジャーのマウンドは当時の日本では考えられないほど硬質で、スパイクの歯がまるで食い込まない、または刺さったきり少しも動かない感覚を味わう。
黒田も最初に直面した困難はマウンドだった。左足を踏み込むとグサリと刺さり、前にずれていかない。日本にいたときと同じ投げ方では左足の、特に太ももが、わずか数球で張ってきた。これでは1年どころか1試合ももたない。
スパイクの歯の向きや本数を左右で変え、着地した左足が少しだけ土を削って前にずれるよう工夫を重ねた。十数足ものスパイクを試し、開幕時にはロッカーにスパイクが山積みになっていた。いかに繊細で深刻な問題だったかが分かる。
「耐雪梅花麗」の野球人生
調整方法もキャンプで200球、300球と投げてフォーム作りをしていたNPB時代とは逆に、「投げない勇気」も必要とされた。
精神的、体力的な疲労を感じながら、ドジャース、ヤンキースという名門で7年間、79勝79敗という実績を残した。広島に戻ってからは悲願のリーグ優勝にも導いた。苦難と闘い続けたドラマティックな道のりは、殿堂入りにふさわしいものがある。
こう駆け足で振り返れば、器用に環境に適応し「成功への最短距離」を走ってきたようにも映る。だが、その陰にあったのは人並み外れた努力の量であり、精神的な強さであろう。座右の銘である「耐雪梅花麗」(雪に耐えて梅花麗し)を身をもって示したプレーヤー人生だった。
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