10月19日の日本ハム戦で引退登板
西武・松坂大輔投手(41)が19日の日本ハム戦(メットライフ)で、現役最後となる登板を果たした。横浜高校の後輩でもある近藤健介に対し5球を投じ、結果は四球だった。
往年を知る者なら寂しく感じたかもしれない。直球のスピードは118キロ。松坂大輔のボールではないことは誰が見ても明白だった。
「本当は投げたくなかったですね。この状態でどこまで投げられるかというのはありましたし、もうこれ以上ダメな姿は見せたくないって思ったんですけど。どうしようもない姿かもしれないですけど、最後全部さらけ出して見てもらおうと思いました」
試合前の会見での言葉のままだった。そんな状態になってまでマウンドに戻ることを諦めなかった。その姿に松坂の生き様が集約されていた。
歯車が狂いだしたオークランドでのアクシデント
かねてから松坂は宣言していた。「僕はボロボロになるまで投げ続けますよ」と。この言葉はソフトバンクと契約し、日本球界に復帰した2015年頃から繰り返し聞いてきた。
だが、本当はもうその時点でボロボロだった。松坂本人が会見で明かしたように2008年の5、6月頃に右肩を痛めた。遠征先のオークランドでロッカーからブルペンに移動する際、足を滑らせ無意識に右手でポールのようなものに捕まってしまったのだ。
違和感がありながらも登板を続け08年には18勝を挙げた。09年はWBCで3勝を挙げ2大会連続世界一に貢献している。だが、シーズンでは2度の故障者リスト入りを経験するなど12試合の登板にとどまった。
「僕のフォームが大きく変わり始めたのが2009年くらいだと思うんですけど、その頃には痛くない投げ方、痛みが出てもなるべく投げられる投げ方を探しだした。その時、その時の最善策を見つける。そんな作業ばっかりしていました」
佐藤義則コーチと“禅問答”
フォームのバランスが崩れると体のあらゆる場所に影響を及ぼす。松坂は09年には股関節痛も発症。11年には右肘の靭帯再建手術、トミー・ジョン手術を受けた。12年は右僧帽筋を痛め、故障者リスト入りしている。
15年にNPB復帰を果たすが、もう元の松坂ではなかった。評論家をはじめ周囲は豹変した投球フォームに首を傾げたが、本人が実情を明かせるはずはない。できうる最善の策を考えもがき苦しんでいた。
当時のソフトバンク投手コーチだった佐藤義則氏に松坂の状態を質問した際には「どうやらなければいけないんだということはこっちも本人も分かっている。でも、分かっていてもできない事情があるんだよ」と話していた。今となっては理解できるが、禅問答のような回答に悩まされたものだ。
カムバック賞は神様からのご褒美
松坂は少しでもいい情報を見つけては、全国を巡り肩の治療を受けまくった。「10や20ではきかないですよ。何件行ったか分からないです」と藁にもすがる思いで多くの施術を受けた。
その甲斐あってか17年オフに「何かがガチッとハマった瞬間があった」と右肩の回復に手応えを掴んだ。ソフトバンクは在籍3年間で1試合のみの登板となったが、18年に移籍した中日では復活することができた。
11試合の登板で6勝。6勝目は聖地・甲子園で38歳の誕生日となった9月13日に掴んだ白星だ。これが松坂にとって最後の勝利、日米通算170勝目となった。必死に打開策を求め続けた松坂。カムバック賞に輝いたこのシーズンは、野球の神様が授けてくれたご褒美だったのかもしれない。
投げられない時期、心ない言葉をネット上などで見てしまう機会もあった。あえて、反論の手段を講じず「僕も人間なのでショックを受けることもあります。でも、それは僕自身の責任ですから」とじっと耐えた。
状態が悪くても逃げなかった。松坂大輔という大役を演じ切った。もう松坂大輔のボールが投げられなくてもマウンドに上がった。その姿に勇気を与えられた人々は数知れない。
「野球を好きなまま終われて良かった」
多くのファンは思っているだろう。
「松坂大輔を好きなまま引退試合を見届けられて良かった」と。
ⒸSEIBU Lions
【関連記事】
・燃え尽きるまで戦い抜いた松坂大輔の本心、きっかけはイチローだった
・「松坂世代」の一番出世は?投手、野手ランキング、現役は和田毅1人に
・松坂大輔に3球団競合した1998年ドラフトの答え合わせ、外れ1位の成績は?