日本人選手も多数在籍
ロサンゼルス・ドジャースは、1884年創設の名門チームだ。ナショナルリーグ西地区の強豪として、ワールドシリーズ優勝は6回、リーグ優勝は21回、地区優勝は15回を誇る。2016年も、終盤の大逆転で地区優勝を飾り、リーグチャンピオンシップまで進出した。
在籍した主な日本人選手は、1995年の野茂英雄投手始め、2002年石井一久投手、2008年黒田博樹投手と続き、2016年からは、前田健太投手が入団して活躍している。1988年を最後にワールドシリーズへの出場はない。
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青のユニフォームがよく似合うMLBロサンゼルス・ドジャースは、日本人にもなじみが深いチームだ。トルネード投法でMLBへの道を切り開いた野茂英雄投手はじめ、多くの日本人選手が活躍した。ここではロサンゼルス・ドジャースのプロフィールと永久欠番選手について、紹介しよう。
ロサンゼルス・ドジャースは、1884年創設の名門チームだ。ナショナルリーグ西地区の強豪として、ワールドシリーズ優勝は6回、リーグ優勝は21回、地区優勝は15回を誇る。2016年も、終盤の大逆転で地区優勝を飾り、リーグチャンピオンシップまで進出した。
在籍した主な日本人選手は、1995年の野茂英雄投手始め、2002年石井一久投手、2008年黒田博樹投手と続き、2016年からは、前田健太投手が入団して活躍している。1988年を最後にワールドシリーズへの出場はない。
トミー・ラソーダ監督は、ロサンゼルス・ドジャースには投手として入団、後に監督として采配を振るう。投手としての入団は1949年、メジャーデビューは1954年だが、ドジャースでのプレーは2年間だけだ。この間の投手としての実績はあまりよくない。
しかし、引退後はドジャース傘下の監督を務め、1977年にはドジャースの監督に就任すると、ここから本領を発揮する。20年間監督を務め、地区優勝8回、リーグ優勝4回と成績を残し、ワールドチャンピオンにも2回輝いた。
野茂投手入団当時の監督で、日本でCMに出演したこともあり、「長嶋茂雄は兄弟、野茂英雄は私の息子」だと言ったそうだ。永久欠番背番後2は監督時代の背番号だ。
ドン・サットン投手は、1964年ロサンゼルス・ドジャースに入団、1966年メジャーデビューした投手だ。以降1980年までをドジャースのエースとして活躍する。この間の成績は550試合に登板、先発は533試合で、233勝を挙げ、完封勝利が52回もある。毎年30試合以上に登板して、投球回数は年200回以上を達成、奪った三振数は2696個だった。
コンスタントに10勝以上を挙げているが、20勝以上は1回しかなく、サイヤング賞は取れていない。不思議なことに、シカゴ・カブスとは相性が悪く、特定チーム13連敗の記録を持っている。2016年時点で、メジャー通算324勝は歴代14位、先発登板756回は歴代3位の記録だ。
サンディー・コーファックス投手は、1954年~1966年までのメジャーリーグ人生を、すべてロサンゼルス・ドジャースで過ごした。初出場となった1955年からの通算成績は、登板397試合中先発314試合で2324.1回を投げ、通算防御率は2.76、三振は2396個も奪っている。
足を高く上げるフォームから投げられる、フォーシームとカーブが最大の武器だった。特に1963年からの4年間の活躍は素晴らしく、25勝以上が3回、防御率1点台が3回もあり、引退前年となった1965年にはシカゴ・カブスを相手に、完全試合も達成した。しかし、翌年にはひじの故障で突然引退をする。まだ30歳の若さだった。
ジャッキー・ロビンソン選手は、1947年にメジャー昇格、1956年までをドジャースでプレーした。当時は、まだメジャーリーグに根強い黒人差別がああった。ロビンソン選手はニグロリーグでプレーをしたあと、ドジャース傘下のモントリオール・ロイヤルズに入団、そして、メジャー昇格を果たす。
しかし、黒人選手への風当たりは強く、対戦を拒否する球団や、移籍するチームメイトもいたほどだった。それでも、ロビンソン選手は嫌がらせや、中傷にも耐え、野球で結果を残す。10年間で1382試合に出場、通算打率.311だったが、中でも1949年の活躍は素晴らしく、打率.342で首位打者、盗塁37個で盗塁王も獲得、MVPに輝いた。そして1997年には、黒人選手のMLBへの道を開いた功労者として、背番号42は全球団共通永久欠番となった。
ロサンゼルス・ドジャースの永久欠番の中から、4人を選んで紹介した。いずれも監督として、選手として、MLB史上に残る方ばかりだ。偉大な先人たちへの思いをはせていただければ、2017年、前田健太投手が投げるロサンゼルス・ドジャースの応援にも、熱が入るのではないだろうか。