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記憶に残る名勝負に事件 星稜高校野球部の歴史と戦績

2019 8/7 12:30
野球
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Photo by mTaira/Shutterstock.com

夏の甲子園準優勝1回、ベスト4が2回

星稜高校は1962年(昭和37年)に開校した石川県金沢市にある私立高校だ。開校当初は「実践第二高等学校」だったが、翌年に生徒・教員から名称を募集し「星稜高等学校」に改称された。

野球部も1962年に創部。甲子園への出場は春の選抜大会が1977年第49回が初出場で計13回、夏の選手権大会は1972年第54回が初出場で20回の計33回となる(2019年現在)。

春夏の甲子園共に数多くの印象深いシーンを演じており、夏の甲子園では2回ベスト4まで進み、第77回大会と第101回大会で準優勝を果たした。春の選抜ではベスト8が3回となっている。

歴史に残る名勝負 箕島と延長18回の死闘

星稜の名勝負の一つといえば、1979年夏、第61回大会の箕島戦で繰り広げられた白熱の延長戦だ。

4回目の出場となったこの大会は、初戦となった2回戦で京都の宇治に8-0で快勝し、3回戦で箕島とぶつかった。

試合は序盤から投手戦の様相を呈し、4回に両者がそれぞれ1点を奪い合い、そのまま延長戦に突入。12回表、星稜が勝ち越しの1点を入れると、その裏2死からホームランを喫し再び同点に。

16回表にも星稜が1点を勝ち越したが、その裏2死からの同点弾で三たび追いつかれ、18回裏箕島のサヨナラで高校球史に残る熱戦は終わりを告げた。

この対戦に勝利した箕島はその後も勝ち上がり、史上3校目の春夏連覇を果たした。

議論噴出した松井秀喜への5連続敬遠

1992年夏、第74回大会では松井秀喜が関わる「事件」があった。

11回目の出場となったこの夏、1回戦は新潟県の長岡向陵に11-0で大勝して好スタート。2回戦では明徳義塾との対戦だった。

春の選抜で3本のホームランを放った松井の長打力を警戒し、明徳義塾の馬淵史郎監督は松井の全打席敬遠を指示。4番松井は、5度の打席に立ちながら一度もバットを振ることなく、チームは2-3で破れた。

この「事件」を機に、5連続敬遠の是非だけでなく、高校野球における勝利至上主義についても議論を呼び、全国的な関心を集めた。

北陸勢初優勝を逃した1995年夏の甲子園

1994年と1995年には2年連続で春夏連続出場を果たし、4季連続の甲子園となった。

1994年は春夏とも1回戦で敗退したが、1995年春の第67回選抜大会でベスト8に進出して手応えをつかみ、夏の第77回大会に臨んだ。

左腕エース・山本省吾の力投で1回戦、2回戦と順調に勝ち進み、準々決勝では金足農を6-3、準決勝で智辯学園を3-1で退け、決勝では東東京の帝京と対戦。北陸勢としても初優勝がかかっていたが、星稜は1回表に1点を先制するも追加点が奪えず、1-3で敗退。準優勝に終わった。

奥川恭伸を擁して準優勝

1995年の準優勝以降、夏の甲子園では3回戦の壁を突破することが出来なかったが、2019年夏の第101回大会では奥川恭伸を擁して勝ち進んだ。3回戦の智辯和歌山戦では延長14回を投げ切って23三振を奪うなど、人気とともに評価も急上昇。決勝で履正社に3-5で敗れて北陸勢悲願の初優勝には届かなかったが、爽やかな笑顔で大フィーバーとなった。

奥川は秋のドラフトでヤクルトから1位指名を受けてプロ入り。今後の日本球界を担う一人として期待されている。