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日大三高・小倉全由監督が2人の名将から学んだこと

2021 7/17 06:00小山宣宏
日大三高・小倉全由監督,Ⓒ上野裕二
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Ⓒ上野裕二

後になってから気づいた蔦文也監督の言葉の意味

7月3日に『「一生懸命」の教え方』(日本実業出版社)を上梓した日大三の小倉全由監督。これまでの監督人生のなかで数多くの名将と対戦してきたことにも本書では触れているが、ここでは思い出深いという2人の名将について取り上げていくことにする。

40年以上に及ぶ監督生活のなか、数多くの名将と対戦して学んだことは尽きない。

今から34年前の1987年春のセンバツ準決勝。当時、関東一を率いていた小倉監督は、蔦文也監督率いる徳島の池田と対戦し、7対4で勝った。

決勝では立浪和義、野村弘樹、片岡篤史、橋本清らタレント揃いのPL学園に敗れはしたものの、関東一の名は破竹の快進撃によって一躍全国に知られることとなった。

その準決勝の試合後、小倉監督は甲子園の通路で蔦監督と対面した。

「攻めダルマ」の異名を持つ蔦監督と言えば、「やまびこ打線」を擁して82年夏、83年春の連覇を筆頭に、甲子園での優勝3回、準優勝2回を記録した名将である。

その蔦監督から、小倉監督はこんなアドバイスを受けた。

「小倉君、余計なところでエースピッチャーの負担をかけさせるんじゃないぞ」

この言葉を聞いた小倉監督は、蔦監督の真意を理解したつもりでいた。

「他校から練習試合の申し込みが多数あったとしても、当時のエースだった平子浩之を使い減りさせるような状況だけは作らせまいと、彼を全力で守る気でいたんです」と話す小倉監督。

だが、想像もしないアクシデントが突如として襲ってきた。

春の関東大会の宇都宮南との決勝で、2対3で1点ビハインドの最終回。送りバントの構えをしていた平子がインコースに投げられ、利き手である右手に当たってしまうデッドボール。よりによって当たった箇所が、ピッチングに影響してしまうところだった。

野球を経験された人ならおわかりかと思うが、普通に構えたときとバントの構えをしたときとでは、同じインコースの体付近にボールを投げられたときでも、避け方が大きく異なってくる。前者は当たったときのダメージが少なくて済む場合があるが、後者はボールの勢いをそのままに受けてしまうのでダメージが大きい。

このとき小倉監督は、平子にヒッティングをさせたり、ホームベースから離れたところに立たせて三振をとられるくらいの覚悟は必要だったのだが、当時はそこまで思い至らなかったのだ。

「『使い減りさせるような状況を作らないこと』だけが、エースピッチャーの負担じゃないんですね。春の関東大会は優勝しようがしまいが、甲子園の出場には直結しない。

それだけにあの試合は、『たとえ負けてしまったとしても、エースピッチャーをケガをさせるような状況を作らせないこと』が求められていたのだと、平子がケガをして投げられなくなったときに初めて気づいたのです」

と悔やみながら話す小倉監督。

結局、平子は夏の東東京予選でも思うように実力を発揮することができずに、ベスト8で修徳に敗退。春夏連続の甲子園出場の夢は断たれた。

「このときの経験がきっかけで、『チームのエースを守ることができるのは、監督しかいない』というのを、心の底から学び取ることができました」と小倉監督は回想する。

木内さんからもらった金言には深く納得した

もう1人の名将は、昨年の11月に89歳で亡くなられた木内幸男さんである。

「木内マジック」と評されたその手腕で取手二、常総学院で数多くの実績を残し、甲子園通算40勝を記録。取手二時代の1984年夏の甲子園では、桑田真澄、清原和博を擁したPL学園を決勝で下し、その後も尽誠学園の伊良部秀輝、東北のダルビッシュ有といった数多くの好投手を打ち崩してきた。

メジャーの舞台も経験したこれだけの大投手相手に、まぐれや偶然だけでは絶対に勝つことができない――。

そう考えた小倉監督は、木内マジックの正体を知りたいと思って、練習試合で学び取ろうとした。

そこでわかったことは、「相手の動きを読みながら、臨機応変に対応していく野球」を貫いていることだった。

たとえば先発で右の本格派のオーバースローのピッチャーが投げていたかと思えば、試合の中盤には右のアンダースローのピッチャーに交代。終盤には左のサイドスローのピッチャーを登板させる。

タイプの違うピッチャーを次々と登板させることで、相手バッターのタイミングを狂わせていたのだ。

攻撃面においても、相手の守備陣形を見て、ヒットエンドランやバスターエンドランなどの策を講じて、どうにか自分たちに有利な局面に持っていこうとする。

「練習試合では木内先生の采配には何度も驚かされることがありました。このときに木内マジックの本質を見た気がするんです」と話す小倉監督。

さらにこの試合の直後、木内さんから金言をいただいた。

「小倉君、学校全体が『野球部が甲子園に行ってほしい』と応援し、盛り上げてくれるような野球部を作らなければいけないよ」

「その通りだなと、何度もうなずきました」と小倉監督は話す。

「野球がうまければいい」「ただ野球さえできればいい」という考え方では、普段の学校生活もいい加減なものになってしまう。

「クラスメートとも仲良くし、学校の先生から好かれるような野球部員でいることで、みんなが『応援してあげよう』という雰囲気になっていく。そうした環境を野球部全員で作り上げていくことが大切なのです」

と小倉監督は力説する。

だからこそ小倉監督は日頃から選手たちにこう言い続けている。

「みんなから応援されるような野球部を作っていこうな」

その言葉に応えるがために、選手全員がグラウンドで汗を流し続け、2018年以来3年ぶり18回目の夏の甲子園出場を目指している。

日大三高の練習風景

Ⓒ上野裕二


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