後になってから気づいた蔦文也監督の言葉の意味
7月3日に『「一生懸命」の教え方』(日本実業出版社)を上梓した日大三の小倉全由監督。これまでの監督人生のなかで数多くの名将と対戦してきたことにも本書では触れているが、ここでは思い出深いという2人の名将について取り上げていくことにする。
40年以上に及ぶ監督生活のなか、数多くの名将と対戦して学んだことは尽きない。
今から34年前の1987年春のセンバツ準決勝。当時、関東一を率いていた小倉監督は、蔦文也監督率いる徳島の池田と対戦し、7対4で勝った。
決勝では立浪和義、野村弘樹、片岡篤史、橋本清らタレント揃いのPL学園に敗れはしたものの、関東一の名は破竹の快進撃によって一躍全国に知られることとなった。
その準決勝の試合後、小倉監督は甲子園の通路で蔦監督と対面した。
「攻めダルマ」の異名を持つ蔦監督と言えば、「やまびこ打線」を擁して82年夏、83年春の連覇を筆頭に、甲子園での優勝3回、準優勝2回を記録した名将である。
その蔦監督から、小倉監督はこんなアドバイスを受けた。
「小倉君、余計なところでエースピッチャーの負担をかけさせるんじゃないぞ」
この言葉を聞いた小倉監督は、蔦監督の真意を理解したつもりでいた。
「他校から練習試合の申し込みが多数あったとしても、当時のエースだった平子浩之を使い減りさせるような状況だけは作らせまいと、彼を全力で守る気でいたんです」と話す小倉監督。
だが、想像もしないアクシデントが突如として襲ってきた。
春の関東大会の宇都宮南との決勝で、2対3で1点ビハインドの最終回。送りバントの構えをしていた平子がインコースに投げられ、利き手である右手に当たってしまうデッドボール。よりによって当たった箇所が、ピッチングに影響してしまうところだった。
野球を経験された人ならおわかりかと思うが、普通に構えたときとバントの構えをしたときとでは、同じインコースの体付近にボールを投げられたときでも、避け方が大きく異なってくる。前者は当たったときのダメージが少なくて済む場合があるが、後者はボールの勢いをそのままに受けてしまうのでダメージが大きい。
このとき小倉監督は、平子にヒッティングをさせたり、ホームベースから離れたところに立たせて三振をとられるくらいの覚悟は必要だったのだが、当時はそこまで思い至らなかったのだ。
「『使い減りさせるような状況を作らないこと』だけが、エースピッチャーの負担じゃないんですね。春の関東大会は優勝しようがしまいが、甲子園の出場には直結しない。
それだけにあの試合は、『たとえ負けてしまったとしても、エースピッチャーをケガをさせるような状況を作らせないこと』が求められていたのだと、平子がケガをして投げられなくなったときに初めて気づいたのです」
と悔やみながら話す小倉監督。
結局、平子は夏の東東京予選でも思うように実力を発揮することができずに、ベスト8で修徳に敗退。春夏連続の甲子園出場の夢は断たれた。
「このときの経験がきっかけで、『チームのエースを守ることができるのは、監督しかいない』というのを、心の底から学び取ることができました」と小倉監督は回想する。















